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その時歴史が動いた 「逆転の極秘電報154号 知られざるポーツマス講和会議の真相」

ポーツマス講和会議に出席する日本全権団が横浜港からアメリカのポーツマスという軍港に向かったのは今から112年前の1905年7月8日(明治38年)のことだった。



日本がポーツマスに派遣した全権団の面々。中央の前席が小村寿太郎(1855~1911)である。



これは日露戦争を勝利した日本ロシアとの戦争を終結させるための講和会議だった。表向きには勝利した日本だが、兵力を使い果たした日本に戦争を継続する力はなかった。日本からは全権(交渉全面委任)として外務大臣・小村寿太郎他、ロシアからはロシアで数々の要職を歴任したウィッテ(1849~1915)がこれに当たった。



交渉のための会議は8月10日から9月5日まで、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルト(1858~1919)仲介のもとに行われた。



小林とウィッテの間には水面下で数々の駆け引きが行われた。駆け引きの中には如何にアメリカ国民の世論を味方につけるかということも大きなポイントであった。当初小村は賠償金15億円、樺太全島の割譲を求めたが、戦争継続をちらつかせる老獪なウィッテの前にことごとくこれを阻まれた。交渉中、記者会見を開いたウィッテは記者団の前に「日本は金が欲しいために戦争を行ったのだ」と述べたのである。

これによって日本へのアメリカ世論の風当たりは強いものとなった。ここからは各国の思惑が入り混じった鍔迫り合いとなった。ルーズベルトはロシア皇帝ニコライ2世(1868~1918)が樺太南半分の割譲を承諾したにも関わらず、小村にはロシアは賠償金支払いにも、樺太領土の割譲にも応じない意向との虚偽の事実を伝えたのである。



意外にもこの結論に至った原因はロシアのインド進出を懸念し、日本への軍事援護を求めた同盟国・英国の関与であった。ロシアのイギリス大使が日本のイギリス行使にロシアの樺太南半分分割の意思を伝え、この情報が日本政府に伝えられたことがその理由であった。



絶体絶命に追い込まれた全権団であるが、水面下の英国のこの動きで、日本は賠償金なし、樺太の南半分割譲という成果を得た。事情を何も知らない日本国民はこの決定に対して到底納得せず、暴動を招いた。小村の家族は民衆の日比谷焼き討ち事件で生命の危機に瀕したのである。

ニューヨークでこのニュースを聞いた小村はこう語っている。「全ての人を満足させることは不可能である。我々は責務を果たしたことに満足すべきである」



解 説
歴史に名を残した人物の多くは死んでからようやく認められます。小村寿太郎もそんな人物でした。第二次世界大戦後、樺太はソビエト連邦の領地となりましたが、大相撲の横綱大鵬の誕生は樺太が旧日本領であったことによるものにごさいました。

私はブログライフを通して、残念ながら全ての人と誼を結ぶことは不可能と考えていますが、小村寿太郎のこの言葉に、人間としての不可抗力と妥協すべき接点を感じます。人間は生き延びる為に交渉しなければならないことが多々ごさいます。

この時の小村は主張すべきことを主張しながらも、相手の出方を慎重に伺い、紆余曲折を経て樺太の南半分を獲得することに成功したのです。私は瀬戸際外交とも取れる彼の交渉術とその粘り強さに、「我々にとっての交渉とはどう在るべきか」ということへのヒントを見出すのです。本日もご覧頂きありがとうございました。


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