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臼井吉見著「石巻」粗筋、読後感想
つい最近、私は郷里石巻に関する或る随筆を読んだ。昭和32年初版臼井吉見氏著「石巻」である。この随筆は仙台市図書館(メディアテーク)で借りた「ふるさと文学館第五巻」(宮城県版)に掲載されている。

この作品は5000字ほどの短編だが、往時の石巻のことがよく書かれている。本日はふるさと文学館第五巻(宮城県版)の見出しと臼井氏(故人)紹介の傍ら、この作品の粗筋と読後感想について述べてみたい。

第一部~第三部、この中では先日私が批評を行った坂口安吾の「伊達政宗の城に乗込む」も掲載されている。


第四部~第五部、臼井吉見氏の「石巻」は第四部の最後に掲載されている。本書は宮城県の文学や歴史に触れたい人には是非お勧めしたい著物である。

臼井吉見(1905~1987)

以下:Wikipediaより引用
長野県南安曇郡三田村(現・安曇野市)に、父貞吉・母きちの次男として生まれる。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)、旧制松本高校文科甲類を経て、1929年東京帝国大学文学部卒業。松本中学では後に筑摩書房の創業者となる古田晁、俳優・演劇評論家の松本克平が同級であった。

旧制伊那中学(現長野県伊那北高等学校)、松本女子師範学校などで教員を務めた後、上京して東京女子大学でも教え、さらに、1946年創刊の総合雑誌『展望』(筑摩書房)の編集長を務め、文芸評論家としても活躍した。『日本文学全集』『現代教養全集』などを編集した。1956年『近代文学論争』で芸術選奨文部大臣賞を受賞した。

1964年から代表作となる大河小説「安曇野」の執筆を始め、1974年に完結し、谷崎潤一郎賞を受賞した。75年日本藝術院会員。道の駅アルプス安曇野ほりがねの里に臼井吉見文学館の展示がある。主な著書に
『人と企業成長会社の異色経営者論』(中央公論社1963年)
『大正文学史』(筑摩叢書1963年)
『安曇野』(全巻、筑摩書房、1965-1974年/ちくま文庫)
『文芸雑談』(筑摩書房、1978年)などがある。
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随筆『石巻』粗筋及びミック読後感想
この随筆が始めて出版されたのは昭和32年(1957年)であった。臼井氏が石巻を訪れた昭和30年前後と思われる。石巻と言えば仙台藩の公益の一大拠点として藩政時代から栄えた港町であったが、往時の石巻は東北本線に近い気仙沼や塩釜に、水揚げ高としては後塵を浴びるものとなっていた。漁場が遠くなり船が大型化し、石巻に注ぐ旧北上川の水深の浅さが大型船に対応しきれないこともあったと書かれている。

私はこの理由について、以前調べたことがあったので少し触れておきたい。実は北上川の河口近くには中瀬という中洲の島があるが、この島は自然にできたものでなく、川村孫兵衛の北上川河口開削工事の後に人工的に造られた島であり、この島の存在が川底の土砂の堆積に影響をもたらしたという。藩政時代に、木造船の造船場の拠点として造られた人工の島が、後になって大型船が就航できない原因になってしまったのは皮肉と言うしかない。

自分の故郷である石巻にダメ出しをしてしまったが、臼井氏は一方で石巻の往時の風情にも触れている。中瀬は臼井氏が訪れた頃は釣り人や映画上映(中瀬には古くから岡田劇場という遊興施設があった)で深夜まで賑わっていたともされる。臼井氏が訪れた時、岡田座では任侠もの(旅烏次郎長一家、渡り鳥いつ帰る)の上映があったようだ。

大変残念なことだが、往時の中瀬の繁栄ぶりは、震災後の今となっては偲ぶ縁さえない。石ノ森章太郎漫画館が復活したのがせめてもの救いである。作品では魚市場の賑わいにも触れている。商魂たくましい自転車行商部隊「いさばや」の存在である。彼らはリヤカーとは違い自転車ゆえ、積載量はごく限られたもので小ぶりの鰹が4、5匹を運ぶのが目一杯だったというが、別名「ノコギリ」と言われ、市場と周辺郡部を何度も往復してその稼ぎを上げていたらしい。

臼井氏は石巻の往時の造船業と製紙業についても触れている。また、魚の水揚げは以前の鰹に代わってイワシ、その後はサンマに代わり何とか漁獲高を上げていたようである。作品では石巻出身の有名人にも触れている。旧石巻中学出身の石母田正氏、同じく週刊朝日編集長の扇屋正造、無人飛行機の研究で知られた富沢豁氏、彫刻家高橋栄吉氏(ガダルカナルで戦没)、映画の小杉勇氏、洋画の千葉清三氏などを挙げている。

最後に牡鹿半島の鮎川港にも触れている。昔から鯨漁の水揚げで有名だった鮎川港は、往時はまだ機能し食卓に鯨肉が上がることも珍しくなかったようである。私は小学校中学年の頃まで石巻に居住していた。また夏休みには祖父母に連れられて、牡鹿半島先端の金華山という島に行ったことがあった。(ミック自叙伝祖父からのメッセージ参照)臼井氏の随筆は小学生の目では到底捉えられなかったものにも触れていて大変興味深く読むことができた。

私は今までに郷里石巻のことを色々と書いてきたが、この時代の風俗のことなどは資料も少なく、大変貴重な著作と捉えている。今年で臼井氏没後30年となるが、臼井氏の書かれた昭和中期の石巻に思いを巡らし、自分の執筆活動に役立てたいと考えている。
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ミック挨拶
粗筋では触れませんでしたがこの随筆には1689年に松尾芭蕉が石巻を訪れたときのことに触れていました芭蕉は「終に道ふみたがへて石の巻という湊に出づ」と書いています。芭蕉から見た往時の石巻は、当に国の果てまで来たように感じられたのかも知れません。同時に芭蕉は「数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、かまどの煙立ちづづけたり」とも書いています。

往時の石巻は伊達政宗の石巻港設置からまだ七十年ほどしか経っていませんでした。芭蕉から見た石巻は、国の果てにしては大変活気のあるところに恐らく見えたのではないでしょうか?18世紀の初め頃、仙台領の実質的な石高は百万石を優に超えたとされますが、その栄華は東北本線開通後の水運衰退までも続きました。その後の石巻には1852年に吉田松陰も訪れ宿泊しています。(往時23歳)

私はそんな郷里石巻をこよなく愛しています。今回読んだ臼井氏の随筆が自分の更なる郷土愛に発展し執筆意欲の向上に一役買うのを感じています。死後三十年を経て、臼井氏の「石巻」が、更に多くのかたの目に触れることを願っています。本日もご覧頂きありがとうございました。


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