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随筆「坂口安吾という作家」
坂口安吾という作家の独創性は認めるが、尊敬する人物には至っていない。その理由は二つある。一つは尊敬して止まない伊達政宗公のことを見下した作品「安吾の新日本地理 伊達政宗の城に乗込む」-仙台の巻-(1951年発行)の存在である

この作品ははっきり言って「仙台藩祖・伊達政宗公へのダメ出し」である。坂口は冒頭から政宗公のことを田舎豪傑、田舎策士などと決めつけ、天守閣を築かなかった数寄屋造りの仙台城を滑稽極まる産物などと、我らが仙台を、そして宮城を散々馬鹿にしており、とても最後まで読む気になれなかったのである。

坂口安吾(1906~1955)

自分が尊敬する人物をけなされて心地よい思いをする者は誰も居ない。私は過去に於いて、幕末の英雄とされる勝海舟が二宮尊徳を批判したのを知り、一気に海舟への熱が冷めた経緯があったが、坂口安吾の伊達政宗批判にも同じような感情を強く抱くのである。

さて、本題の坂口安吾の話に戻るが、彼を尊敬できないもう一つの理由が創作時に於けるヒロポン(覚醒剤の一種)の使用と睡眠導入の手段とした酒浸りの堕落した生活である。随筆「ちかごろの酒の話」(1947年発行)の中で彼は自分と酒との関わりについて具体的に書いている。

この随筆に登場する武田麟太郎(1904~1946)という作家も坂口と同様に粗悪なメチル入りのカストリ焼酎などを飲み、出征先のジャワ島で肝硬変で死亡したとされる。(吉行淳之介による)酒をもってストレスから逃れようとし、これに溺れるのは古今東西の人類の足跡を振り返ればざらにあることである。坂口にも多分にそういう習癖があったと私は察している。

「自分は倒れても構わない。死後などは考えてない」などと、気丈に振る舞いながらも、一方では先輩作家の武田麟太郎がメチルを飲んで倒れてしまったことに対して「心細さが身にしみる」などと弱音も吐いている。文中に「メチルは安全」などと書いているがとんでもないことである。メチルアルコールを飲んで失明したり、肝硬変になった人物は極めて多い。つい先日、ロシアの東シベリアでメタノール(メチルアルコールの別称)を混ぜた密売酒を飲んだ人間が十数人が命を落としたことがあったが、現代医学に於いて、メチルアルコールが人体に悪影響を及ぼすのは明らかなことである。

第二次大戦中や戦後は、ハングリーゆえ我が国にそのような余裕などなく、メチルアルコールの有害性が社会問題にすらならなかったか、或いはそんなリスクを知りながらも、現実逃避の手段として一時限りの快楽に浸りたかった?とも受け止めている。メチルアルコールのことばかり書いたが、坂口安吾は作家としての活動期が戦中、戦後と重なったがゆえに、入手し難いエチルアルコール(現代の酒類の主成分)の代わりに、メチル入りの粗悪な密造酒のカストリ酒に手を出したと受け止めている。

彼の執筆時のスタンスで気になるのが「私の場合、私は考へるだけ考へ、燃焼させるだけ燃焼させた材料を、蒸気のカマの蒸気の如く圧縮して噴出させて表現するやうな方法なのだから、いざ書く時には五日間ぐらいなら、眠らずに書きあげたいのだ。芸術の表現と生命の燃焼が同時であつて云々」という部分である。あれは確か中学の理科の実験と記憶しているが、彼の作家としての活動は、まるでマグネシウムが一瞬にして激しく燃え尽きるのと酷似している。

また、彼はヒロポンやアルコール摂取のみで飽き足らず、昭和24年にはアドルム(睡眠薬)中毒となり入院している。さて、彼の性癖ばかり述べたが作品にも触れたい。私の知る限り、彼の作品の中で存在感を感じるのは「桜の森の満開の下」である。これは山に住み着いた一人の山賊と旅人から奪った妖しく美しい女の物語である。

幻想的との評価もあるが捉えようによっては猟奇的であり、残虐的描写もあり、少なくても中学生以下には読ませたくない作品である。本作は恐らくヒロポンの副作用である幻覚、精神錯乱を利して書き上げたに違いない。女が人の生首で遊ぶなどという描写は、とても正気の沙汰の人間が書いた作品には思えないのである。正気の沙汰でないとなると太宰治や芥川龍之介を彷彿するが、坂口は彼らと違って自殺には至らなかった。恐らく、人間の寿命を司る神は坂口のマグネシウムのような燃焼と倫理観に際し、50歳まで生きるのを許さなかった。そう考えたい私である。
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筆者挨拶
皆さん、本日は坂口安吾に対して少しばかり辛口な評論を述べさせて頂きました。私はダメ出しはけして好きでございませんが、尊敬する伊達政宗公をあそこまで罵られたらとても黙っていられなかったのです。彼は歴史を客観しながら淡々と政宗公を語っているのでなく、最初から政宗公のダメ出しありき、読者へのサービスのつもり(受け狙い)ありきで、骨子を立ち上げ、その後に於いて枝葉をつけ、この作品を作ったと捉えています。

坂口がこの作品を発表した後34年を経た1985年、歴史作家・司馬遼太郎が仙台や石巻、塩竃を訪れ「街道をゆく 仙台~石巻」を書いていますが、この作品と、坂口安吾の新日本地理「伊達政宗の城に乗込む」には相対するものを感じます。即ち、司馬が藩政時代の仙台藩のことを「巨大な米穀商のようなもの」と語っているのに比し、坂口は「物と人の単なる集散地には独創だの計画だのというものは、あんまり現れることがないのだろう。云々」と、先見性を以って、人工の港である石巻港を開いた政宗公へ、皮肉とも取れる口調で述べている点です。

私は作品を作る際、時として主観的感情を強く持ちたいがゆえに飲酒に及ぶことがごさいます。これは一種の成り切りであり、トリップのようなものです。こういう時に特に気をつけていないと客観不足になることがごさいます。恐らく、坂口は主観を求めるあまり、彼の頭の中には性善説や儒学などの類は微塵もなかった。否、仮にあったと言っても表面上のあやかしに過ぎなかったと考えています。

人を批判すれば死後に於いてでも、今度は人から批判される立場に立たされることがごさいます。そしてこれはけして人事ではなく、今度は彼を批判した私が批判される番なのかも知れません。そう思う私です。本日もご覧頂きありがとうございました。

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