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エッセイ『苦労をともに分かち合ったベスト』
以前、私のサラリーマン生活の後半をともに歩んだ自転車の話をしたが、今日はチョッキの話をしたい。あれは11年少し前のことだった。人生初めての転勤で東京勤務となった私は更に九州に出張を命ぜられた。三週間ほどの福岡勤務を経て11月半ばからは佐賀に乗り込んだ。このベストはその時に地元のホームセンターで買い求めたものである。なんの変哲もないダウンのベストであるが、その後11年の長きに渡って私と苦楽をともにした思い出のベストである。

今考えれば、東北育ちの私にとって佐賀の冬などは温暖な部類に入るものゆえ、たいしたことはないように思えるが、当時の私は今の私とはまったくの別人だった。不覚にも、元来の温室育ちが遂にその欠点(逆境に弱い)を露呈する仕儀に至ったのである。佐賀での仕事は初めのうちは順調であったが、その後自分の知らない土地で家族から離れた環境で仕事をしたことが大きなハンディとして私に上にのしかかって行くことになる。職場に行くのが憂鬱になってきたのは12月に入って間もないころだった。食欲が徐々に減って行き思考力が低下し、いつもの自分でないことに気付いた頃にはすっかりうつの病魔が背後に忍び寄っていた。

モチベーションが大幅に低下し、車で言えば排気量が1/10ほどになった状態が続き、そのうちに自殺さえ考えるようになった。その時の辛さは健常者にはけしてわからないものである。そして更に始末が悪いことに、外見は健常者となんら変わらない。ことのとが周囲に誤解を与える元となった。このままではまずい。会社に迷惑が掛ると考えた私は上役に「自分はうつ病にかかったみたいです。」と電話した。

この時の私は自分がうつ病気味なのを何となく自覚していた。それは以前からうつ病に関する文献を読んでいたからである。この時あわてて駆けつけた上役に「自分はうつ病気味だから心療内科に行かせて欲しい。」と頼んでも相手にされなかった。上役の真意を今思うと「うつ病になった者は自覚症状として自分では知りえない」という漠然とした先入観から来るものだったようである。別な視点で捉えるならば、以前にうつに関する文献を読んでいたことが私を救う手立ての一つになったのかも知れない。

私の命を救ったのは過去の読書で培った知識のみでない。どうしても上役の理解が得られず、にっちもさっちも行かなくなった私は或る人物に相談した。その人物こそが井澤先生である。

この時、先生は「すべてを捨てて病院に飛び込め」と電話でアドバイスしてくれた。その時の先生の声は当に神の声にも聞こえた。うつ病に関する読書による予備知識と井澤先生のこの一言がなければ、この時の私はどうなっていたかわからない。

その後2年半もの間、うつ病、躁鬱病との闘病が私を待っていた。うつ病でのパフォーマンス低下を周囲が理解してなかったことが往時の私の前に大きく立ちはだかった。大変不本意だったのは、一時的にパフォーマンスが低下した私に対して、「やる気がない」や「能力がない」などという恒久的ニュアンスなレッテルが貼られたことである。今とは違って職場でのうつがさほど社会問題になってない時代だったことが、このような悲劇に繋がったと分析している。

そんな状況下にあってもこのベストは冬場の私の掛け替えのない相棒であった。病状が回復してからのこいつは相馬転勤時(亘理町のアパートでの単身生活)にも活躍してくれた。11年前に九州の佐賀であったことはあまり思い出したくないが、今でもこのベストは私にとって愛しい存在である。数年前に少しほころんで中のダウンが出かけたこともあったが、裁縫を施し今でも現役である。こいつはこれからも私とともに、仙台の寒い冬を乗り切ってゆく頼もしいパートナーであり続けて行くことであろう。

横町挨拶
新しいものも悪くございませんが、人は時としてこうして思い出の浸みこんだものに触れる際、過去の喜怒哀楽を思い出し、愛着を感じるのではないでしょうか?今日、ここにこうして私が書き留めておかなければ、このベストの存在など永久にスポットを浴びないものとなることでしょう。今は無事に定年を向かえ、ややほろ苦いものを感じながら、この記事を書いています。

内面から湧き出る負けん気が、幸いにも私の疫病神を追い出してくれたわけですが、もしこのベストに口があり、しゃべれればこう語ることでしょう。「九州で使われると思っていた自分が、まさか東北の冬場で活躍するようになるとは夢にも思ってなかった…」と。(笑)皆さん、本日もご覧頂きありがとうございました。
10六百横町
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