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司馬遼太郎原作「街道を行く仙台・石巻」
実は私はこの動画を2年前の記事・エッセイ「故郷石巻の今昔」にリンクしたいきさつがあった。http://blogs.yahoo.co.jp/bgytw146/33102757.html但し、NHKの番組のYOU TUBEリンクはやがて消し去られる運命にある。今回もそれを覚悟の上で動画を掲載する。

私のルーツは石巻にあるのだが、実は石巻は伊達政宗によって育まれた人工的な町である。極論すればアメリカのラスベガス(人工的に砂漠の中に造られた街)のようないきさつがある。それは動画の24分20秒以降で司馬が述べているように、「港としての石巻は江戸時以前には存在していなかった。河口もなかった。この川も港も伊達政宗が造った。…中略…仙台藩領の米は主としてここから積み出され、また諸国の船舶が此処に寄港し、奥州第一の商港とされた…」とある。然らば伊達政宗が居なければ港町石巻はなかった。然らば私は現世に存在していたかはわからなかった。

1632年『武江年表』によると「諸家深秘録に言う。今年より奥州仙台の米穀初めて江戸へ廻る。今に江戸の米の三分の二は奥州米の由なり」と書いてある。多くの歴史書を相対してみると、大まかに言って往時の江戸で消費される米の半分前後(三割~七割)は仙台藩から出荷された奥州米だったとされる。司馬は番組の中で、仙台藩のことを「巨大な米穀商」としている。当にこの言葉は藩政時代の仙台藩を見事に言い当てた言葉と認識している。

『街道をゆく』嵯峨散歩 仙台・石巻によると、伊達政宗死後の江戸時代中期の仙台藩の石高は実質百万石を優に越え、江戸へ出荷された米の石高は三十万石~七十万石にも達したと言う。石巻をこうした港町にしたためた背後には伊達政宗の北上川改修事業にあった。伊達政宗はその大土木事業に際し、大阪冬の陣で浪人となった川村孫兵衞(旧毛利家家臣)を抱えてその任務に当たらせた。一方で慶長遣欧使節団でヨーロッパに派遣した支倉常長を始め、こうした際立つ人選も政宗の優れた先見性を如実に示したものと言える。

伊達政宗は秀吉の国替えで新たな領地となった仙台をこう謳っている。「入りそめて国ゆたかなるみぎりとや千代とかぎらじせんだいのまつ」(意味:私が仙台に腰を落ちつけた以上は、この領国は豊かになっていく一方だろう。このあたりの地名は千代と呼ばれてきたが、この領国の繁栄は千代の松とともに、今から千年以上にも及ぶであろう。)

政宗没後四百年が過ぎようとしているが、この句に異論を唱える者はいない。港町石巻の基盤も、政令都市仙台の基盤も彼の先見によって築かれたのである。それだけこの地は政宗の足跡が偉大であり、今だに宮城県のあちこちに彼のもたらした遺産が所狭しと散らばっているのである。

ミック挨拶
彼は若かりし頃から天下を取ることに全てを尽くしました。但し、時勢には逆らえなかった。しかしながら、彼の強烈な生き様はそれまでの常識を覆しました。それまでは政略結婚で生き延びようとする気質が奥州の大名の大半を占めたのですが、弱肉強食とも言える政宗の生き方はこの常識を真っ向から否定したのです。

私は二年ほど前から先祖調べをしましたが、その結果、己の祖は伊達の士族であったのは間違いないようでした。従って心から仙台藩祖・伊達政宗公を尊敬しています。実は鬱病に陥った私の人生の最大の危機(鬱病罹病による)を救ったのも伊達政宗公にごさいました。私は無神論者ですが、伊達政宗公だけは己の心の中に今でも生きています。

私は己のルーツが仙台藩にあることを、誇りに思っています。一方大変不本意ながら「白河以北一山百文」という言葉がごさいます。明治維新の敗北による賊軍というイメージが付きまとうこの言葉ですが、こういう東北人のコンプレックスを振り払うには、伊達政宗公の抱いた天下取りへの野心(「関東まではたやすい」と彼の豪語が手紙に残っている)が追い風になると感じているのです。

本日はやや郷土贔屓の記事になってしまい恐縮しております。他の地域にお住まいの皆様に於かれましては、お気に触った際は何卒政宗公の英気に免じてお許し願いたいと存じます。本日もご覧頂きありがとうございました。

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