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前書き
今回、本著の読書欲に繋がったのは私の大切なブロ友様であられるともたん様の影響である。ともたん様は北陸の金沢にお住まいの主婦のかたである。既に子育てを終えられ、ご主人とお二人でボランティアをされ、家庭菜園を営まれるなど、悠々自適の生活をしておられる。また料理が大変お上手で良妻賢母の鏡のようなおかたである。この本を読むことがともたん様への誼に繋がる。そういう気持ちが私の活字を追う速度を上げるに至ったのは願ってもないことであり、こうした指向が今の私のブログ運営方針に新たな方向性をもたらすものとなりつつある。ともたん様には、この場を借りて感謝申し上げる次第である。

※ともたん様のブログへのリンクhttp://blogs.yahoo.co.jp/e_tomotan

尚、前回(土佐に関するエッセイの紹介)同様に著作の概要と私の所見を都度箇条書きとし、粗筋と読後感想に代えさせて頂きたい。
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司馬遼太郎『加賀百万石の長いねむり』読後感想
先ずは江戸時代の加賀藩は百万石とも百二十万石とも言われた大藩中の大藩だが、文久三年幕府大目付が作った全国諸藩の石高番付をご覧頂きたい。

ダントツで加賀藩が群を抜いているのがおわかりであろう。本日は全国三百余諸藩の筆頭に位置する加賀藩が、他の藩と比べてどこが違うのかについて話を進めて行きたい。

1、豪雪と快晴日の少ない気候
北陸から越後にかけての日本海側は快晴が少なく、快晴は一年のうちで十数日と言われる。
また北陸は豪雪地帯でもある。このあたりについて筆者はごく簡単に触れている程度である。
2、百万石の美人
百万石の美人とは極めてインパクトの強い言葉だが、司馬の知人によると、金沢市内の旧武家屋敷のある長町界隈では、夕暮れ時に土塀際を歩いていると、息の止まるような美人と出くわすことも珍しくないという。秋田、庄内を初め日本海は美人の産地と言われるが、金沢も例外ではないようである。金沢美人を讃える呼び名として「百万石の美人」という言葉も司馬は紹介している。

※下の地図をご覧頂きたい。右側の市街地図の左の端の部分が旧武家屋敷・長町である。

3、優雅な言葉遣いから連想される格式と秩序の美
少なくとも昭和後期に至るまで、金沢には独自の言葉が残っているとしている。「まいっさん あんや つんじみます」を標準語で言うと「毎度様 ありがとう存じます」となるという。また金沢で言う「だすばせ」とは「遊ばせ」のことである。こういう言葉が今でも残っていることについて、司馬は大藩特有の余裕がもたらす古雅な芸能、封建の美学といった類という解釈をしている。
4、百万石の大藩なのになぜ沈黙を守ったのか?
加賀藩主・前田家は元々尾張出身で織田家に仕えた家臣であった。(家格は中の上)織田信長に仕えて信頼を得た前田利家は信長の跡を引き継いだ豊臣秀吉にも厚意にされ、秀吉をして利家は「無類の律義者」とし、身内とさえ見なしていたという。秀吉は血の繋がっている甥の秀次にも切腹を命じたことは有名だが、血の繋がっていない前田利家には心を許していたのには驚かざるを得ない。その利家の無類の律儀ぶりが信用に繋がり、大藩の礎を築くに至った。

※ライトアップされた金澤城

その後徳川の時勢になると、二代目の利長は利口者で、豊臣の力に陰りが見え始めると、家康に利ありと見て豊臣家と断絶し生き残りを図った。徳川の世になると、今度は外様で大藩の前田家は取り潰しの目標となったが、三代目の利常は自らを阿呆仕立てとし、鼻毛を伸ばし、口を開けて外観は低脳を装い、幕府の目をくらまし、「加賀は軍備を疎かにしている。とても反逆などはできまい。」と思わせるよう芝居をした。更に、謡曲や普請の調度に凝り、城下では美術工芸を奨励し「文化にうつつを抜かした藩」という路線を打ち出し、幕府に謀反がないことをアピールした。

加賀藩のことなかれ主義は幕末を迎えても同じであった。動けば墓穴を掘りかねないのが歴史に於ける普遍性ゆえ、石橋を叩いて渡るものを重ねる。こういう姿勢の加賀藩を語るには「金持ち喧嘩せず」という言葉が相応しいのかも知れない。
5、日本史上稀有とも言えるクーデター「加賀一機」の勃発
応仁の乱勃発後の21年後の1488年(長享2年)、この地の守護大名・富樫政親のこもる高尾城が一揆によって落城した。(この時蜂起した者は10万とも20万とも言われる)政親は自害に追い込まれた。理由は力を蓄えてきた自作農や小地主が「守護大名や地頭らの支配者階級に年貢を納めるのはばかばかしい」と思ったことであった。こうして不満を持った在郷の徒は第八世蓮如による呼びかけに応じて、講(寄り合い)を作って蜂起したのである。ここに連合政権による革命政権が成立し100年近く続いたが、その後の織田信長の出現で制圧、粉砕されるに至っている。こうした大きな出来事が、或いはその後の「加賀藩の事なかれ主義」に繋がったのかも知れない。
6、真宗王国と言われる石川県
この地の特質を語るならば宗教にも触れねばならない。実は加賀は江戸三百年の間」、本願寺が教養を以て加賀人を薫化したとされる。本願寺の教えとは人間無力の教えである。人間は本来無力ゆえに、阿弥陀如来に対して他力本願に及ぶという思想である。司馬は本願寺思想はけして政治に使われたものでないとしている。だとすれば、これは加賀人を行動家から瞑想家に導くのに十分な思想とも考えられる。
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ミック挨拶
皆さん、本日は司馬遼太郎のやや難しい表現を借りながら、加賀藩をああだこうだと述べましたが、文中で印象に残ったのは「加賀(石川県)はねむりこけてしまったがゆえに書きづらい」と言っていることです。前田家の功績で大藩になった加賀は或る意味で保守的な地盤が強い土地柄と言えるのかも知れません。しかしながら、一方で京都言葉を思わせるような言葉遣いが残っていたり、上品で色白の美人が居たり、城下町の名残がほうぼうに残っていたりと興味の尽きないものを感じます。否、単に興味という表現では舌足らず。憧憬といったほうが今の私の偽らざる心境に近い気が致します。

北陸金沢は私にとって未踏の地でありますが、定年後に機会があったら是非訪れたいと思います。その時ブロ友様のともたん様にお逢いできればこの上もない幸いと存じます。読者の皆様には加賀藩への知識不足がたたり、やや突っ込み不足に至った仕儀を何卒ご容赦願いたいと存じます。本日もご覧頂きありがとうございました。

本ブログ◆司馬遼太郎の研究◆シリーズ
街道をゆく「仙台・石巻編」http://blogs.yahoo.co.jp/bgytw146/33102757.html
街道をゆく「羽州街道編」http://blogs.yahoo.co.jp/bgytw146/34445516.html
エッセイ「大内定綱の稀なる生き残り」http://blogs.yahoo.co.jp/bgytw146/32479117.html
日露戦争で秋山真之が用いたT字戦法http://blogs.yahoo.co.jp/bgytw146/34211828.html
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