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「重庵の転々」荒筋
土佐出身の医者・山田重庵は南伊予の山中で医者を営んでいた。この地は古くは愛比売(現在は愛媛)とも言われ、温暖な気候や豊後水道に面した穏やかな風土は伊予の人々の温和な人柄を重ねるに相応しい土地柄であった。そんな中にあって土佐出身というだけで土地の人は重庵に対して猛々しいものを感じていた。しかし彼は往診もこなし、徐々に土地の人々に受け入れられ、尊敬を集めていった。

※舞台となった愛媛県宇和島市と吉田町

そんな折に、重庵は侍と見られる或る人物から吉田の殿様(伊達宗純:奥州伊達氏分家の宇和島伊達家の更なる分家・吉田伊達家初代当主)の重篤な病を診て欲しいとの依頼を受ける。重庵はこれを受け、見事に殿様の病を快方に導く。重庵はこれによって若い殿様・伊達宗純の信頼を一気に得て、御殿医となる。その後重庵は優れた才覚を活かし藩の人事や政治にも口を挟み、山田仲左衛門と改名し寵臣となった。筆頭家老にまで登りつめた重庵は藩の欠点とも言えるぬるま湯的な重臣態勢にメスを入れ大幅な組織改革を行った。この改革で旧来の重臣数家がその座を追われ、逆恨みを買うに至った。


そんな折に起こったのが山田騒動である。山田騒動は、吉田藩初代藩主伊達宗純が登用した山田仲左衛門の専横に対する、伊達家旧来の老臣たちの反感、すなわち新旧の勢力争い、譜代の直臣対出頭人の抗争ともみなされる事件である。この時、山田仲左衛門に御家乗取りの野心ありとして決起したのが、御小人組からなる足軽たちであった。天和(1683年)1128日、これら御小人たちは、仲左衛門出仕の途中を御殿前の松の木陰で待ち合わせ、仲左衛門を殺害しようとしたが、同志のうちの一人が内通したため、首謀者の長兵衛をはじめ人のものたちはその場で取り押さえられ、大工町奥の普門院で切腹を命ぜられた。


仲左衛門は事件のあと、伊達宗純を便り江戸に避けたが、貞享(1686年)6月、仙台藩の江戸芝浜藩邸において月番家老柴田内蔵の審問をうけ、萩野七郎兵衛、久徳平左衛門、尾田喜兵衛などと対決の結果、その非を追求されて、ついに仙台藩に終身幽閉の身となった。仙台に渡った重庵のその後は定かでない。


ミック読後感想
私は最近四国のブロ友様と新たなバイパスができ、誼を通じている。彼女の名はだっき~さんである。彼女は四国の愛媛県(伊予の国)にお住まいのかたである。彼女の住んでいる地域をもっと知りたいという気持ちが司馬遼太郎著「重庵の転々」の読書に繋がったことをここに表明したい。

※ブロ友様・だっき~さんのブログへのリンクhttp://blogs.yahoo.co.jp/enapon_kaorin

最初にお断りしたいのは山田重庵は山田文庵という実在の人物がモデルになっていたことである。司馬は史実に基づいて独自の想像を交えながら枝葉をつけ、本作を作ったものと察している。さて伊予の国、宇和島伊達藩は仙台伊達藩分家である。伊達家家系図を参照して頂きたい。

※赤:宇和島伊達家藩祖・伊達秀忠、黄色:仙台伊達家二代当主・伊達忠宗今回「重庵の転々」登場する伊達宗純は伊達秀忠の四男にあたるので伊達政宗から見ると孫にあたる人物である。

司馬によると遠く奥州から五百名に及ぶ家来や従者を引き連れ、遠隔のこの地に根付くまでは相当の苦難があったらしい。第一に言葉がまったく通じず、伊達秀忠がこの地に赴任してから50年ほどは通訳のような役割の者が行き交っていたということである。穏やかな豊後水道に面した伊予は乱を好まぬ気風があったようで、土佐から来たよそ者の重庵は医者としては尊敬に価する人物なれど、藩の人事やまつりごとにまで首を突っ込まれるのは、さぞかし煙たいものがあったことだろう。

※左:仙台伊達家家紋の一つ「竹に雀」、右:宇和島伊達家家紋「竹に雀」
仙台笹と宇和島笹の違いはあるが両家(本家と分家)の家紋は酷似している。

















サラリーマンで言えば転勤してきたやり手のよそ者が次第にのし上がり、上司に居座ったシチュエーションを想像して頂きたい。こうなってくると押しのけられた者にとって、重庵は「目の上のたんこぶ」的な存在になってきたはずである。こういう人物に限って要領がよく、上位の者に巧く取り入り、下位の者に威張り散らす。威張り散らすだけならまだいいが、先輩を蹴落としてでも出世しようとする。ここに軋轢を生ずるのは必定とも言える。


重庵への不平不満、恐怖を抱くのは地位を奪われた者だけでなかった。それを証拠に反乱を起こした者たちのほとんどは足軽の身分であった。ここで読者の多くは、なぜ重庵がこれほどまでに怨まれなければならなかったのか?と思うことだろう。それに対する私なりの考えを述べたい。此処に「奥州の作法」というものがある。みちのく奥州の地では、地方を統治する豪族や大名は政略結婚を以って親族の契りを交わし、無駄な戦を避けながら共存共栄を図ってきたという歴史がある。


舞台となった地はみちのく奥州ではないが、戦いを好まぬ伊予の人々は、「奥州の作法的な考え」(革新というものを好まず、共存共栄によって生き延びようとする平和主義的な思想)が強かった?と受け止めている。所詮、水と油はいくら掻き混ぜても混ざることはない。従って、土佐出身の重庵のような斬新で突起した考えに、伊達吉田家の人々はついて行けなかったのでないだろうか?ちなみに山田重庵(文庵)に徳があれば仙台に渡った後も史実に名前を残したに違いないが、少なくても私の知る限りでは彼の名は仙台ではあまり知られていない。これは大変残念なことである。

ミック挨拶
本日もご覧頂きありがとうございました。

本ブログ◆司馬遼太郎の研究◆シリーズ
街道をゆく「仙台・石巻編」http://blogs.yahoo.co.jp/bgytw146/33102757.html
街道をゆく「羽州街道編」http://blogs.yahoo.co.jp/bgytw146/34445516.html
エッセイ「大内定綱の稀なる生き残り」http://blogs.yahoo.co.jp/bgytw146/32479117.html
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