fc2ブログ
司馬遼太郎著『有隣は悪形にて』読書感想



はしがき
私は今年の6月16日、自分のブログに富永有隣に関するエッセイを書いた。長州出身の幕末時の儒学者・富永有隣については作家の国木田独歩が『富岡先生』の中で描いている。独歩は富岡先生のモデルとなった富永有隣は「尊大であり、容易に人と相容れない人物」と語っている。その際、後書きの中で司馬遼太郎の富永有隣観(ハリネズミのような人物)について少しだけ触れた。このことが本書『有隣は悪形にて』への読書欲に繋がった。ここで富永有隣のことを書くからには吉田松陰についても触れなければならない。本題に入る前に、改めて二人のプロフィールについて説明したい。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
富永有隣(1821~1900、現存する肖像画はあまりにも凶相ゆえ、大河ドラマ「花燃ゆ」から引用。富永有隣を演じるのは本田博太郎氏)



【以下Wikipediaを基に筆者が編集】
長州藩士・儒学者。諱は徳、後に悳彦。通称は弥兵衛。有隣は字で、『論語』の「徳は孤ならず必ず隣あり」から命名したとされる。父は長州藩士である御膳夫士の富永七郎右衛門で、有隣はその長男。幼少の頃に天然痘にかかり右目を失明する。歳で長州藩藩校・明倫館に入り、13歳で藩世子(藩主嫡男)に『大学』に講じ

成人後、小姓を務めるが、他人と打ち解けなかったために、同僚・親族らに憎まれ、嘉永5年(1852年)に冤罪で見島に流され、嘉永年(1853年)には萩野山獄に移された。そこで同じく幽閉中であった吉田松陰(寅次郎)と出会う。

安政年(1859年)の出獄後は松陰の計らいにより松下村塾で講師を務め。安政の大獄で松陰が捕らえられると、吉敷郡に帰って秋穂二島村(現在の山口市)定基塾を開いて尊王論を説。有隣は孟子に傾倒する寅次郎を徹底的に批判する。

慶応年(1866年)の四境戦争では、鋭武隊を率いて石州・芸州口で幕府軍と交戦したが、明治維新後の開国政策への不満から、大楽源太郎とともに脱隊騒動を起こして敗北、各地を逃亡する日々を送る。明治10年(1877年)に逮捕されて、年後大審院において有罪判決を受けて国事犯として石川島監獄に収容される。

明治17年(1884年)に特赦により釈放され、明治19年(1886年)に熊毛郡城南村(現在の山口県田布施町)に住む実妹の元に身を寄せて帰来塾を開いて後進の指導にあた。著書に『大学述義』『中庸義解』『兵要録口義』などがある。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
吉田松蔭(1830~1859、こちらも大河ドラマ「花燃ゆ」から引用。役者は伊勢谷友介氏だが、それにしても現存する肖像画とよく似ている)



【以下Wikipediaを基に筆者が編集】
幕末の思想家、山鹿流兵学師範。明治維新の精神的指導者・理論者・倒幕論者として知られる。幼名は杉寅次郎。叔父の玉木文之進が開いた私塾「松下村塾」で厳しい指導を受ける。西洋兵学を学ぶために嘉永3年(1850年)に九州に遊学する。ついで、江戸に出て佐久間象山、安積艮斎に師事する。嘉永4年(1851年)には、交流を深めていた肥後藩の宮部鼎蔵と山鹿素水に学ぶ。

嘉永5年(1852年)、宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たず脱藩。この東北遊学では、水戸で会沢正志斎と面会、会津で日新館を始め、見聞を深めるために東北各地を訪ねた。江戸に帰着後、脱藩の罪に問われて士籍を剥奪・世禄没収の処分を受ける。嘉永7年(1854年)にペリーが日米和親条約締結の為に再航した際には、金子重之輔と二人で、海岸につないであった漁民の小舟を盗んで旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ、乗船した。

しかし、渡航は拒否されて小船も流されたため、下田奉行所に自首し、伝馬町牢屋敷に投獄された。この密航事件に連座して佐久間象山も投獄されている。幕府の一部ではこのときに象山、松陰両名を死罪にしようという動きもあったが、川路聖謨の働きかけで老中の松平忠固、老中首座の阿部正弘が反対したために助命、国許蟄居となった。長州へ檻送された後に野山獄に幽囚され、富永有隣と知り合う。

安政2年(1855年)に出獄を許されたが、杉家に幽閉の処分となる。1857年、叔父から引き継いだ松下村塾で後の明治維新で重要な働きをする多くの若者を育てる。塾生には久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎らがいる。1859年、安政の大獄により獄死(斬首)する。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
読後感想
司馬遼太郎は寅次郎(後の吉田松蔭)の人物像を性善説(人間の本性は善であるとする説)を礎としたものと書いている。松下村塾で伯父に代わって実質的な主となってからも、塾生を上から目線で見下ろさず、師弟というよりも学び舎を同じくする同朋として接していた。(「花燃ゆ」の中で、寅次郎は門下生に対して「私はあなたに教えることはできませんが、一緒に学ぶことはできます。」という謙虚な言葉を掛けているが、これが松蔭の実像に近いと私は認識している)

これに対して、松下村塾での富永有隣(寅次郎よりも9歳年長)は高飛車であり、狷介極まるもので、時として門下生を罵倒することさえあったと言う。(後の総理大臣・伊藤博文に対して、顔を見る度に「利助(博文の幼名)のアホウが!」と罵っていたという。また、孟子思想に傾く寅次郎のことを「寅次郎には学問がわからない」、「寅次郎には師匠としての威厳がない」、「寅次郎は妖言(孟子思想)を吐いていた」などと述べ、周囲にも言いふらしていた。今で言う「ダメ出し」である。一度は釈放された松蔭が再度投獄された際、有隣は己の身を案じて、塾を捨て逃亡に及んだ。

有隣の陰口と逃亡は再び投獄された寅次郎の耳にも達し、温厚、謙虚な寅次郎をして「老狡憎むべし」と言わしめている。儒者として、人としてあるまじき行為であるが、このあたりは義に生きた寅次郎との対照を感じる。このあたりは国木田独歩の『富岡先生』には出てこない部分であるが、本書を読む限りでは、有隣をどう贔屓目に解釈しても人格者とは言い難い気がする。

タイトルの「悪形」とは「敵役」のことを意味するが、司馬のニュアンスとしては「憎まれ役」というイメージが強い気がする。儒教では徳と知識は両輪であり、識者にとって欠かせないのが人徳であるとしているが、有隣は知識に長けていても徳に欠けた人物だった…、司馬遼太郎はそう言いたかったのでは?という気がするほど、有隣の救いようのない人物像である。国木田独歩はそのような師匠の欠点に目を背け、勉学から受けた恩師に感謝しつつ『富岡先生』を執筆したと私は感じている。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
挨拶
本日は富永有隣に対しての辛口評論となってしまいましたが、冒頭で述べたように彼は著物(『大学述義』『中庸義解』『兵要録口義』など)も残しております。孔子が「正道を行って其の志を達成するのは本分なれど、私はいまだかつてそのような(完璧な)人物に出会ったことはない」と述べているように、そういう寛容なる精神を以って彼の孤高な生き様(名前の有隣とは裏腹?)を偲び、機会がごさいましたなら、いつしか彼の著物を読みたいと存じます。本日もご覧頂きありがとうございました。

関連記事

トラックバック

トラックバック URL
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)