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謎に満ちた我が曾祖母Mの生涯
私の父方曾祖母が亡くなって91年が経つ。本日は謎に満ちた曾祖母の生涯にスポットを当てたい。私はここ数年前から先祖調べを行い、不完全ながら家系図を作成している。先ず家系図を基に私と曾祖母の関係を説明したい。曾祖母は1855年(安政元年)の幕末の生まれである。

私が相当の推察を加えたことを最初にお断りしたい。曾祖母の伴侶が養蚕業に携わっていたという既成事実から、旦那である或る人物とは商人である可能性が高いと踏んでいる。曾祖母の人物像に関して考察する前に、曾祖母の実家であるT家に関して今後は石巻市立図書館などで資料を調べて解明に取り組みたいと思っている。

私は現在、相馬図書館から「東北の交流史」という本を借りているが、その中に山形孝夫著「カナダ密航の記録」がある。この本のメインテーマは明治9年9月1日に東和町(旧米川、鰐淵、米家)の住民83名が及川甚三郎に率いられて北米のカナダに密航を企てたことについてのものであるが、サブテーマとして藩政時代の石巻のことが書かれていた。これによると、伊達政宗の家臣であった川村孫兵衛によって開削された(新)北上川が港町石巻を発展させたということであった。往時の石巻には伊達藩の米倉のみでなく、南部藩の米倉も置かれ、川には多くの舟が浮かび栄華の様相を呈していたという。

ここで往時の主たる世相の動きと曾祖母にあったことを年代順に羅列する。
・寛永年間(1627年頃)石巻から江戸に米が出荷され、石巻が一躍一大交易港としての地位を確率する。
・1689年、松尾芭蕉が曽良とともに石巻を訪れ、その繁栄ぶりを「数百の廻し船入江につどい、人家地を争いて、かまどの煙立つ続けたり。」と讃える。
・1852年、東北を周遊した吉田松陰が視察のために石巻を訪れる。
・1855年(安政元年)曾祖母誕生。
・1868年、戊辰戦争の最後の流れが石巻に訪れる。土方歳三や榎本武揚らが石巻を訪れ、仙台藩に参戦を要求するも、既に官軍に降伏していた仙台藩はこれに応ずる状況に非ず。一部の士気の高かった額兵隊らの乗船に留まり、食糧の調達をし、函館に向かう。同年、元号が明治へと変わる。
・1870年代、曾祖母が或る男性との間にの息子が居たが夭折する。
・1920年頃、養子(私の祖父)を向かえる。(大叔父の話によると、往時の祖父は運送業を営んでいたとされる。恐らく舟運に連動した陸運と思われる。)
・1921年頃、嫁(私の祖母)を向かえる。
・1922年~1928年、二男一女を設ける。
・1925年曾祖母死去(この時私の父は三歳)
・1930年~1940年頃、事業資金、息子二人の大学進学に伴う学費捻出等のため土地を半分ほど売り払う。
・1945年以降、祖父が菓子店を営む。
・195?年、ミック誕生。
………………………

これが私の生まれた横町(現千石町)である。近所の古老のかたに話を伺ったところ、昔はここに堀(水路)が流れていたということであった。

これは宮城県の郷土史家・紫桃正隆氏の書いた横町の隣町である蛇田町の見取り図である。赤い線が横町である。ご覧のように蛇田町(現旭町)より堀がクランク状に延びてきているのがわかり、古老のかたの話と一致を見る。ここで曾祖母は妾として囲われたわけだが、ただの妾とは事情が違っていたようだ。なぜならば、当時の石巻としては絶好の商業地であった横町の辻にある地を裏側の町に達するほど細長く所有していたからである。これをどう解釈すれば良いのか非常に難しいが、曾祖母の旦那がそれだけ曾祖母に情をかけたのでは?と考えたい。曾祖母は兄が藩命で切腹させられた以上、まともな結婚などはできなかったとも考えている。

紫桃正隆著「石巻地方の史談と異聞」より引用

ミック挨拶
皆様、誠に恐縮ながら本記事は過渡期にあるとお考えください。それは今回アップした記事を基にして次に書くものを視野に入れているからにごさいます。私がこうして先祖に関するものを書くきっかけとなったのは、幼少時に於いて祖父母から受けた深い恩愛に他なりません。郷土史と先祖への思慕が上手く噛み合い、新たな作品ができるよう、今後も精進して参りたい所存にごさいます。本日もご覧頂きありがとうございました。


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