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短編小説「井澤先生」
◆初めに◆
先ずは、10年ほど前に話を戻したい。それは2005年末の発症以来、ずっと私を苦しめてきた精神的不調が、或ことがきっかけとなり、復活の兆候を見せ始めた時のことである。実は、私に復活の兆しをもたらしたものは一つのものだけではない。おおよそ三つの要素があると踏んでいる。その三つ全部を網羅するのであれば、本日紹介するもののほかにゴルフを始めたことと、仙台藩の或る侍への成りきりを挙げねばならない。これについては今まで何度かエッセイなどで紹介したいきさつがあるので、本日はその二つを省き、初公開のものだけに留めたい。その残りの一つが今から話をする井澤先生の存在である。

ここで、最初にお断りしておくが、井澤先生は今でも存命である。従ってプライバシーのこともあり、100パーセントのことを書くわけには行かない。但しオブラートで包んだ先生を書いても却って先生に失礼に当たると心得る。従って、私は許される範囲で先生のありのままの姿を描きたいと思っている。読者諸兄に於かれては、このあたりの事情を何卒お含み願いたい。

ビデオに対する想い入れ◆
私が人生の師匠と慕う井澤先生からこのビデオを借りて何度も聴いたのは今から9年前の2007年のことであった。大衆舞踊の股旅ものは主に東北地方の農村部の中高年の娯楽として今でも公演されているが、先生もよく見に行かれるとのことである。武田姉弟舞踊による「兄弟烏」はそんな公演のうちの一つである。この曲は俗に任侠ものと言われるもので、旅先で知り合った無宿渡世人同士の他人が兄弟の契を交わすもので、諺で言えば、「遠くの親戚(兄弟)より近くの他人(親友)」が最も当てはまるような曲である。長い人生の交友関係で、たった一人であっても兄弟の契のような嘉(よしみ)を交わせれば、人間これに勝る冥利もないという気がする。友との間に、兄弟鴉のような関係を築くのは私の長年の夢でもあり、努力を惜しんではならないものと考えている。

兄弟鴉(舞踏バージョン)
※最初のころお見苦しいところがございますが、ライブゆえ何卒ご容赦ください。

◆我が師匠井澤先生◆
井澤先生は必ずしも順調な人生を歩んだ人物ではない。若い頃は自衛隊に憧れ、父の反対を押し切って自衛隊に入隊したが、その後再び父の猛反対にあって辞職している。その後、陸送などの仕事に携わった後は故郷の岩手方面で事業(著名食料品メーカーの小売店経営)を起こしたことがあった。この事業は最初のうちは順調だったようだが、その後は不景気の影響を受け、借金を抱え苦しい経営を強いられた。やがて資金繰りがままならなくなった先生は自殺を視野に入れ、猟師である父親の猟銃を常に持ち歩いたこともあったという。


事業に失敗して自殺を考えた時の先生は恐らく鬱だったのかも知れないが、胃を病んだ先生がどうやって立ち直ったのかは詳しくわからない。その後先生は北陸に渡り、今度は人から使われる身となった。何分そのあたりのことは、なかなかこちらからは聞き難いことでもあり、四方山話の中で小耳に挟んだ程度なのである。とにかく先生は物腰が低く、人あたりのすこぶる良い人物である。そして商売をまとめるのが上手い。このあたりは、前半期の人生の辛酸を味わった経験やその後の営業職の経験が活きているような気がしている。これは世渡りの下手な私にはけして真似のできない裁量である。


そんな先生の趣味は銃剣道(旧日本軍において訓練されていた銃剣術を、太平洋戦争後に競技武道化したもの。木銃を用いて相手の喉、胴などを突き合う競技)である。先生は銃剣道五段の腕前で、年に数回は競技に参加していたほどである。先生は非常にがっちりした体格の持ち主で、強靭な下半身もさることながら、殊の他腕っぷしが強い。これは銃剣道で鍛えた他、若いころに父親から野良仕事を手伝わされたことが影響していると自ら語ったことがあった。



先生は北陸在住の後で宮城県に移つり住み、十数年営業職を経験した後で、今は建設業を営んでいる。先生は高上がりが得手で、足場を組んだり、建物の上屋を解体したり、コンクリート構造物を壊したりすのも得意である。例えば分厚い土間コンクリートを壊す際に於いて、普通の人ならなかなか壊せない手ごわい代物も先生の手に掛かれば不思議なほど簡単に壊れる。その時「なぜそんなに簡単に壊せるのですか?」と先生に聞いたところ、これには力だけでなくコツがあるとのことであった。即ち、ハンマーを打ち下ろす箇所やハンマーがコンクリートにぶつかる瞬間の微妙な角度が影響していいるというのである。これらの極意は銃剣道に於いて相手に技を仕掛けるタイミング(間の取り方)に繋がるものがあるというが、銃剣道の経験のない私には先生の言わんとする極意は私にはわからず仕舞であった。


またこのようながあった。仕事関係の酒の席で、四十代半ばの私は或る人物(A)から絡まれたことがあった。ことの発端は私がA(私よりも二つ年上)に対して「君付けを止めてもらいたい」と言ったことが発端であった。敢えて己の非を語るのであれば、往時の私は人間的に未熟ゆえ、こういう際に人を戒めるような口調でしか、これを表す術がなかったのである。人間の感情などは先方のしゃべりかた一つで変わるものである。ならず者のAは頭に血が上ったようで「貴様、店の外に出ろ!」と述べ、私に喧嘩を吹っかけてきた。

私が無視すると今度はAは大声で騒ぎ立て、今度は私を挑発するかのように大声で何度も呼び捨てにした。宴席の興は一気に冷め、全員の視線がAと私に降り注がれた。その時反射的に私は「やる気か?」という声を発した。すると、Aは目の色を変えて「この野郎!」と凄み私のそばに駆け寄ろうとした。その時私の一人経た隣に居た井澤先生が一言だけドスの利いた声でこう言った。「やめねえか!これ以上騒ぐとつまみ出すぞ!」それは普段温厚な性格な先生が初めて見せた怒った態度であった。この言葉に圧倒されたAはしぶしぶ引き下がり、捨て台詞を吐いて店を出るに至った。まるで家老が猪武者を諌めるような毅然とした姿勢。これは先生との長い付き合いの中で後にも先にも初めて遭遇した気概に溢れた応対であった。


その他、先生にはいろいろと世話になったが、一番世話になったのは転勤時の私が鬱を発症した時である。自殺を考えていた私に「すべてを捨てて病院に飛び込め」と電話で的確にアドバイスしてくれたのは、他でもない井澤先生であった。先生からそう言われるまでに、他の人からはただただ「頑張らないとだめだ」と言われ続け、益々窮地に追い込まれ、最後は悲壮な心理状態になっていったのである。その時の先生の声は当に神の声にも聞こえた。この時先生の一言がばければ私はどうなっていたかわからない。


また鬱病と戦っている際に、仕事のパフォーマンスが上がらないこととともに、もう一つの悩みが私にあった。敗軍の将となって仙台に戻された私は、往時小学校高学年だった息子との会話がほとんどなくなったのである。テンションの上がらない自分は息子から忌み嫌われているのでないだろうか?私はずっとそのことを気にして、息子との関係がこれからも長く平行線のまま推移するのではないかという懸念を持ち、一人で悩んでいたのである。

その件で何度となく先生に相談したことがあった。その時、自ら男の子を育てた経験のある先生から貴重なアドバイスをもらった。先生が言うには「男の子というものは放って置いても何れは父親に相談する時期が必ず来るから心配することはない。」というのである。これには正直言って半信半疑であった。そんな折、今年になって息子が大学に入り、私の懸念が取り越し苦労であったことを思い知った。今では息子と良好な父子関係を築いている。先生からご助言を頂いて相当久しいが結果の的中に際し、先生の鋭い眼力を改めて実感した出来事であった。


井澤先生は御年七十代半ばとなられたが今でも現役であり矍鑠として居られる。雑草は踏まれてもそれをもろともせずに立ち直る。我が先生はそのような反骨精神に溢れておいでである。先生は気負ったところがまったくないが、それが先生の懐の広さであり、風に吹かれる柳のような強かさを重ねる。このあたりが先生の真の強さの秘訣である。

躁うつ病寛解後は180度性格が変わった私だが、今でも先生から得ることは多い。自我が強くなり、どうしてもセクショナリズムに陥るのは躁うつ病寛解後の普遍性と捉えているが、公私に渡る人的交流に於いて軋轢を生じがちな私に、唯一人との協調路線の大切さを無言のうちに諭してくれるのが井澤先生である。私は間もなく定年退職を迎えるが、そんな先生を人生の師と仰ぎ、末長く御健勝であることを祈るとともに、心からお慕い申し上げたいと思っている。本日も拝読頂きありがとうございました。

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