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奥州相馬の聖地・相馬太田神社を訪ねて
本日は一昨日の8月14日に訪れた南相馬市の相馬太田神社についてお伝えしたい。この日の交通手段はJR常磐線・磐城太田駅から自転車でのアクセスであった。駅から相馬太田神社までの距離は2キロ弱ほどである。

中央の林のあたりが相馬太田神社である。周囲との比高は数メートルしかないので、700年近く前にここに奥州相馬氏の祖・相馬重胤公の館があったと言えれても、なかなかピンと来ないものがある。資料を調べたわけでないが、神社を取り巻く小集落にはかつて家臣団を住まわせた名残という印象を受けた。



相馬太田神社の位置を航空写真で確認して頂きたい。
赤:相馬太田神社
黄色:小高神社
橙:相馬野馬追の神旗争奪戦、甲冑競馬が開催される雲雀ヶ原



「相馬郷発祥地 孫五郎重胤公城址」、相馬太田神社と道路を経た箇所にこのような碑が立っている。



重胤公が八十数騎の従者(家臣等)を伴い、下総の国(茨城県守谷城)から下向してきたのは今から約700年前の1323年(元亨3)のこととされる。小高城(小高神社)に城を築城したのが1326年(元亨6)なので、重胤公はそれまでの二、三年をここで過ごしたことになる。これを思うと当に此の地は相馬の聖地と言って差し支えないような気がする。



ちょうど一年ほど前、私は相馬図書館からこのような本を借りた。何れも相馬重胤公が下向してきたころの相馬について書いた小説である。往時は遠い存在であった重胤公の存在が小説を読むことで身近に感じられたのは願ってもない収穫である。



この絵は秋元由美子氏画による相馬師胤公肖像である。(海老原実氏著「杜の坂道」挿絵より引用)



以下Wikipediaより引用後編集
相馬師胤(生年、没年不詳)
相馬重胤の父、陸奥相馬家5代当主。惣領・相馬左衛門尉胤村の庶子である相馬彦次郎師胤は母の尼阿蓮(側室)とともに、庶兄の相馬左衛門尉胤氏と土地争いを起こし、師胤の系統は相馬家の中でも浮き上がった存在になっていったとされる。正応年間(1288~1292)に自身の所領を子の重胤に譲った。永仁年間(1293~1298)には没していたとされる。彼は非常に謎の多い人物であるが今の奥州相馬氏の始祖であることには変わらない。

この絵は秋元由美子氏画による相馬重胤である。(海老原実氏著「杜の坂道」挿絵より引用)



以下コトバンクより引用後ミックが編集
相馬重胤(生年不詳~1336)
陸奥相馬家6当主1323年(元亨3下総相馬郡(千葉県茨城県)から陸奥行方郡(福島県浜通り)にうつり、後に小高城を築き、奥州相馬氏の祖となる。後醍醐天皇の討幕軍に加わり所領を安堵される。以後足利方に属し、1336年(延元2年12月25日)鎌倉で南朝側の北畠顕家の軍に敗れ家臣十数名とともに自害した。通称は孫五郎。彼が1323年(元亨3家臣とともに陸奥行方(現福島県浜通り地方小高地区)に下向してきたのは、それまでの居住地であった下総での勢力争いの末。居づらくなったとも、或いは源頼朝から賜った遠方の地である此の地が家臣の謀反や他からの侵略で奪われそうな懸念があったからともされる。

相馬の家系図で二人の位置付けを確認して頂きたい。




相馬太田神社の入り口である。鳥居の前には大木があるが、樹齢数百年の古木をもってしても重胤公が居を構えた時期には遠く及ばないものと思われる。



よく整備された石段を登ると境内である。



太田神社の本殿はそう古くない。
相馬太田神社(以下Wikipediaより引用した後に編集)
平将門公から十二代にあたる相馬師常公が源頼朝の軍に従い、奥州藤原氏との合戦での功績により奥州行方郡の地を賜り、同族の千葉氏から相馬を継ぎ、奥州相馬の初代となった。その後、元亨3年(1323年)22日、下総国守谷城より相馬孫五郎重胤公が御国換えの際、この地へ移り住み、氏神妙見尊を奉じて宮祠を創建して祀った。相馬家は妙見信仰の信望者で、藩主が篤く信仰していた鎮守・妙見を下総から持参し、敷地内に鎮座させた。その妙見堂が相馬太田神社の由来とされている。この神社は中村藩相馬氏の氏神として代々崇拝されてきた。

案内板によると、相馬孫五郎重胤公が御国換えの際、氏神として持ち来たり祀られたもので相馬の発祥地なり、「霊験あらたかにして生とし生ける物は其の御分霊受けて居り神人、万物の生死栄枯はことごとく、其の司宰にももるる事なく福祉を万民にたれ拾い信仰なければ富貴延命を保ち長く子孫繁栄し牛馬家畜の守護神でもある。」とされる。相馬家は妙見信仰の望者で、領内にはここ太田神社の他に中村神社、小高神社と併せて相馬三妙見社と呼ばれている。



裏のほうから本殿を見てみた。屋根の処理が見事である。私は相馬郷発祥の地に相応しい荘厳な趣という印象を強く感じた。



境内から南側を見下ろしてみた。重胤公は約700年前に、ここからどういう思いで故郷である下総国・相馬に対して思いを馳せたのだろうか?彼には新天地である奥州に野望もあったことだろう。また、下総国・相馬を見返してやりたいという気持ちもあったことだろう。

時空を隔てて現代に再来する奥州相馬の祖への熱き想い。奇しくも一年前に読んだ「相馬重胤公ロマンの道」がそれを彷彿させるに相応しいシチュエーションであった。今の福島県浜通地方に「相馬」という地名が残ったのも重胤公が下向してきてのことに違いない。そのことが私の脳裏を掠め、感無量となったひと時であった。



航空拡大写真で相馬太田神社をご覧頂きたい。別所や館腰などという地名について調べれば、往時の館との関わりがわかるのかも知れない。



神社から北側を望んでみた。緩やかな丘陵地帯の向こうは南相馬市(旧原ノ町)市街である。



神社を離れた後で南相馬市街へと向かった。奥州相馬の聖地とも言える太田神社は豊かな田園地帯にひっそりと佇みつつ、その隠れざる威厳を微かに漂わせていた。



私は相馬重胤公の抱いた熱き志を己の心に焼付け相馬流山を心の中で口ずさみつつ、後ろ髪を引かれる思いで此の地を後にした。
挨拶
皆さん、如何お過ごしでしょうか?私事で恐縮ですが、私の夏休みは今日がちょうど中日となり、明日から後半の5連休になります。
皆様に於かれましては、台風も接近しているゆえ、何卒お気をつけてお過ごしください。本日もご覧頂きありがとうございました。

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