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いわき じゃんがら念仏踊り
早いもので来週から盆休みである。毎年、残暑の厳しい今頃、日本各地のブロ友様からは様々な暑気払い術が寄せられる。冷やしたスイカ、トマト、キュウリなどの野菜、果物、カキ氷、冷えたビールなども悪くないのだが、最近の私の納涼術はエアコンの効いた室内で冷やの日本酒を嗜むことである。

これは本日の晩酌の友である。左は先日の相馬野馬追でブロ友様のやまめさんから頂いたいわきの地酒三本の中の一本の純米酒「湯長谷藩(ゆながやはん)」(太平桜酒造)、右は会津清酒の「相馬野馬追」(末廣酒造)である。

相馬流山踊り
湯長谷藩(ゆながやはん:以下コトバンクより引用)
江戸時代初期に磐城平藩の支藩として成立し、幕末期まで14代にわたって領民に寄り添い、領民とともに歩んだ藩として知られている。初代藩主の内藤(遠山)政亮は「うまれつき悠にして、行跡よし、家臣を助け育ておごることをしない。誉れの将なり」と評価された。以来、湯長谷藩は名藩主に恵まれ一度も国替えや転封がなかった珍しい藩でもあった。寛文 10年(1670) 同国磐城平藩内藤頼長が弟頼直 (遠山姓) に新墾田一万石を分与し、湯本に立藩して以来内藤氏が領有。延宝8年 (1680) 湯長谷に移り、貞享4年(1687) までに丹波 (京都府) 、河内 (大阪府) の加封と合わせ1万 5千石となり、明治元 年(1868) に千石を減封されて1万 4千石となり廃藩置県に至る。 
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相馬中村藩(以下コトバンクより引用)
江戸時代、陸奥国宇多郡中村(現、福島県相馬市)に藩庁をおいた外様藩。藩主の相馬氏は鎌倉時代からの豪族で、数度に渡る滅亡の危機を経て1602年(慶長7)に、徳川家康から6万石を安堵される。歴史の長い相馬氏の家中には戦国時代の遺風が強く残り、藩士は農村に居住し独自色が強いのが特徴。第17代当主・相馬利胤は1611年に中村城を築城して高禄家臣を集住させ、藩庁機構を整備、近世大名としての態勢を整えた。第19代当主・相馬忠胤は、伝統的な野馬追に武道的色彩を加え、現在まで続く形式を確立した。天明の飢饉(1782~1787年)では領民の多くが餓死したり逃散したりしたが、移民を北陸から受け入れ、藩の立て直しを図った。1845年(弘化2)からは二宮尊徳の報徳仕法を実施し、農村復興に務めた。幕末の戊辰戦争では、仙台藩の圧力で奥羽越列藩同盟に加わったが、新政府軍に降伏、藩領を安堵された。1871年(明治4)の廃藩置県により中村県が成立、その後、平県、磐前県を経て、1876年福島県に編入された。 

ミック近況
定年退職が近づき、相馬への勤務も今年で最後の年になりそうである。思い起こせば、転勤を言い渡されて、仙台に家族を残し宮城県南部の亘理町に居を構えたのは昨年の三月末のことであった。今振り返ればあっという間に過ぎていった日々であった。魚が新しい環境になじむもなじまないも環境次第である。従ってここで幸いしたのが亘理や相馬の住みやすさ、なじみやすさであった。豊かな自然、東北とは言え太平洋性気候の持つ冬場の凌ぎよさ、人々の人情の厚さ、そして素朴さ…、長所を挙げればキリがないほどである。

強いて短所を挙げれば仙台と比べて買い物などが不便な程度である。また余暇時間は史跡巡りや相馬図書館の利用、執筆活動などで有意義な時間を過ごすことができた。今は「住めば都」という言葉しか見当たらない。もう少し先のことであるが、恐らく此処を去る際は後ろ髪を引かれるような思いに駆られることだろう。「閑も心がけ次第で仙境なり」これを実感した今回の転勤であった。今夕はそんな思いに浸りながらいわきのブロ友様から頂いた湯長谷藩を嗜んでいる。この酒はコクがあって切れ味が凄い。ここ数年心の中に培った武士道の真意を考えながら飲むには相応しい酒である。

阿武隈山地に沈み行く夕日を見ながら酒を嗜む。余裕のなかった若年時には思いもよらなかったシチュエーションであるが、「花鳥風月」を知り得る心境に至ったのは単に年のせいだけではないような気がしている。物事をポジティブに解釈するならば、十年前に陥った精神的不調があっての心境変化なのかも知れない。

風流な日々を送った亘理住まいだったが、反面月日の経つのは殊のほか早いのも脳裏をよぎるのである。今の自分の心境を比喩するならば尊敬する伊達政宗公の「馬上少年過ぐ」が一番近い気がする。定年退職後のことはまだ決めていないが、改めて自分と向かい合い、ゆっくりと腰を据えて決めたいと思っている。

本日もご覧頂きありがとうございました。


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