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相馬家歴代当主の廟所・同慶寺
相馬野馬追を一週間後に控えた去る7月16日(土)、私は南相馬市の小高神社(小高城址)を訪ねたついでに相馬家の16代以降の当主が眠る同慶寺を訪ねた。同慶寺は小高神社から西に800メートルほど行った場所にある。
ここが同慶寺の入口である。



同慶寺の位置を航空写真で確認して頂きたい。
赤:同慶寺
オレンジ:小高神社(小高城址)
黄色:常磐線小高駅



階段を登りきってから寺門に至るまでこのような石灯篭がある。このあたりは一般的な寺とは異なり、如何にも歴代相馬当主(十六代以降)が眠る廟所というものを感ずる。



同慶寺の本堂である。



同慶寺は南相馬市の指定文化財となっている。



本堂の西側には近世から近代に至る相馬当主、及び一族の墓がある。



これは第16代当主・相馬長門守義胤(外天義胤)公の墓である。17代以降の当主の墓と離しているが、この墓を一見して私は伊達政宗に新地領を奪われ、弟の相馬隆胤(中村城城主)を討たれた怨念を感じた。公は自らの遺言により遺骸に甲冑を着せ、槍弓を持ち北方の伊達領に向かって葬られた。壮絶とも言えるこの埋葬の仕方に際し、徳川の時代に入り、太平の世を向かえた後でも伊達へのわだかまりは尋常でないものがあったと推察される。

第16代相馬当主・相馬長門守義胤(1548~1635)
※以下Wikipediaより引用
小高城主。宇多郡・行方郡・標葉郡の領主。父・盛胤(第15代相馬当主)は天文の乱より後、晴宗派の伊達氏との確執が続く中、奥州の覇権を求めた伊達輝宗・政宗に近隣の諸大名・小名と合従連衡を繰り返して対抗し、伯父の田村氏と和睦することによって所領(現・福島県相双地区)支配の基盤を固めた。



長門守義胤公の嫡男・第17代当主利胤公の墓。利胤公は1611年に本城を相馬の中村城に移している。父君に先立ち45歳で世を去った利胤公はどんな想いであったのだろうか?

第17代相馬当主・相馬利胤(1581~1625)
陸奥相馬中村藩初代藩主。初名は相馬三胤、相馬蜜胤。正室は蘆名義広の娘(実際は蘆名盛隆の娘)・江戸崎御前。江戸崎御前の没後は、徳川秀忠養女(土屋忠直の異父妹で、岡田元次の娘)を正室として迎えた。



これは第18代当主の義胤公の廟所である。同慶寺では唯一の御霊屋である。第18代の義胤公は32歳の若さで亡くなった当主である。同日、歴史ボランティアのかたに、この御霊屋の件についてその理由を訪ねたところ、位や家への貢献度によるとのことであった。



ご覧のように近世以降の当主の墓石はそれ以前のものと異なり、四角い形状となっている。



境内から南方(標葉郡方向)を見下ろして見た。幕末まで名を遺した相馬だが、廟に葬られた歴代当主・一族はそれぞれどんな想いで眠っているのだろうか?



西側の片草地区から見た同慶寺の遠望である。何度も滅亡に瀕し様々な紆余曲折を経ながらも、それに屈することなく生き残った相馬氏。改めて相馬六万石の雄藩振りを実感した歴代当主の廟所訪問であった。

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