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※本作品は去る2016年7月19日に掲載した記事「相馬の本城があった小高城址を訪ねて」を見直し、加筆や修正を加えて歴史エッセイとしたことを初めにお断りする。

初めに
東奥の君子国」とは民俗学者故岩崎敏夫氏が自らの郷里である相馬を評した言葉である。
岩崎敏夫氏(1909~2004)


福島県相馬市生まれ。先祖は修験(山伏)で代々相馬家の祈願院だった。旧制相馬中から國學院大学高等師範部へと進む。大学では折口信夫、金田一京助に学、後に柳田国男に師事して民俗学を学ぶ。福島県下の高等学校に教員として勤務、国語漢文を担当する。1962年(昭和37)『本邦小祠の研究』で文学博士となり翌1963年、第二回柳田賞を受賞。1967年(昭和42)東北学院大学に移り、東北地方の大学として初めて民俗学を開講する。併せて博物館学も講義する。東北学院大学文学部教授、福島県・宮城県・岩手県文化財保護審議委員、日本民俗学会名誉会員、福島県民俗学会、東北民族の会会長を歴任。著書に『本邦小祠の研究』『東北民間信仰の研究・上下』『柳田国男の分類による日本の昔話』『村の神々』『柳田先生と私の細道』『東北の山岳信仰』『民族調査の細道』『日本人の心のふるさと』などがある。

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随筆「東奥の君子国相馬」
君子国の意味を国語辞書で調べると①礼儀や徳義の厚い国、②日本国への美称という意味が含まれる。ではなぜ岩崎氏は自身の出身地相馬をして君子国と讃えたのだろうか?私はその謎を解くために、相馬図書館で氏の著作を読みあさった。そうした折、1998年に広文堂書店から発行された『相馬の歴史と民族から』(郷土史書籍)にこの言葉を解く鍵が見つかった。



それによると二宮尊徳の御仕法導入を決めた相馬家第二十六代当主の相馬益胤(1796~1845)の毎日の食事は焼き飯と一菜で百姓よりも粗末だったという。また三十二代当主の相馬恵胤氏は岩崎氏に対して、相馬家では飢饉に際したとき、一番先に飢え死にするべきが殿様であり、二番目に死するべきが家老、農民は最後まで残さねばならないという家訓があったと語っている。相馬ではこのような当主の理念があったために、一度も百姓一揆が起きなかったという。
※相馬家第32代当主相馬恵胤(1913~1994)



妻は尾崎行雄の三女雪香。子に相馬和胤(第33代相馬家当主)。 学習院高等科、東京大学文学部卒業後、宮内庁事務官になった。昭和11年2月に父孟胤が死亡したのちに相馬家の当主を相続。平成6年逝去。

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相馬の本城があった小高神社を訪ねて
相馬野追を一週間後に控えた7月半ば、私は震災以来5年4箇月振りに復旧したJR常磐線(原ノ町~小高)に乗って、かつて相馬氏の本城があった小高(南相馬市小高区)へと向かった。小高区は原発事故の影響で今年の7月11日まで避難区域に指定されたままだったが、途中の磐城太田駅には「おかえりなさい」との幕が掲げられており、感慨もひとしおである。JR小高駅から小高城址(現小高神社)までの所要時間は徒歩で十分ほどである。
小高神社は毎年、相馬野馬追の最後に行われる野馬懸(のまかけ)が開催される箇所である。小高神社の比高は20メートルとそう高くない。
※西側からの小高城址遠望



今から遡ること約七百年前、奥州相馬氏第六代当主の相馬重胤が下総国(現千葉県北部から茨城県南部)から下向してきたのは1323年の頃とされる。(近年の研究で若干の異説あり)1326年(嘉暦元年)に築城された小高城では、かつて家の存亡に関わるようなことが数度に渡って起きている。

最初の窮地は築城して間もない1336年、北朝側(足利尊氏)についた相馬重胤と次男の光胤は南朝との戦いに敗れて相次いで自刃したのである。また、戦国期末期にも重大な危機があった。伊達政宗の領地拡大に伴い、相馬はそれまで領地だった新地を奪われている。1590年(天正18年)、遂に相馬は領地奪還作戦も叶わず、滅亡の危機に瀕したのである。時の城主・相馬家第16代当主・相馬義胤(長門守義胤)は隠居である父・盛胤の進言(伊達と和するべし)を退け「相馬は伊達の旗下にならない」と唱え、玉砕覚悟の上で徹底抗戦の道を選んだ。  

このとき集まった者は五百人近く(侍五十余人、町人百姓四百三十余人)とされる。一族郎党は主君義胤のこの言葉に感涙にむせび、妙見小高神社(相馬家は代々妙見信仰の信望者である)の神水を飲んで討ち死にを誓い合ったという。
※小高城本丸跡に建つ妙見小高神社



私は境内に佇みながら、ふと故・岩崎氏の言葉「東奥の君子国」を思い出した。君子たる君主は常に民の心を推し量り、いつでも己の身を捧げる覚悟が出来ていなければならない。小高城に五百名近くが集結したそのとき、奇しくも豊臣秀吉による小田原攻めが発令され、相馬義胤は宿敵伊達政宗とともに小田原に参陣して、奥州仕置を経て所領を安堵され滅亡を免れた。

まだ梅雨明けはしてないが、神社を囲んだ林からはセミの鳴き声が響く。私は二の腕に心地よい浜風の余韻を感じながら、眼下に広がる城下町を見下ろしつつ復興の槌音響く小高の地を後にした。


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