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相馬の本城があった小高城址を訪ねて
去る7月16日、私はかつて相馬氏の本城があった小高城址(現:小高神社)を訪ねた。小高神社では毎年、相馬野馬追の最後に行われる野馬懸(のまかけ)が開催される場所である。今回小高を訪問した目的の一つが小高城跡(現小高神社)探訪であった。相馬野馬追を一週間後に控え、己のモチベーションを更に高揚に至らしめるのがその狙いである。

これは西側(前川上流)から見た小高城址の遠景である。周囲との比高は20メートルとそう高くない。

小高城址の石碑を左手に見ながら石段を登ると神社の境内に至る。

航空写真で小高城址(小高神社)をご覧頂きたい。(約1.7倍に拡大可能)

小高城は1326年(嘉暦元)の築城で原ノ町の牛越城に数年城を移した時を除いて、1611年まで相馬氏の本城として使われた城である。
小高城の概念図(東西約180メートル、南北130メートル)である。(陸奥の城様のサイトより引用)城下の南側を流れる川が航空写真の前川になる。

現在の小高神社の鳥瞰図と比べて頂きたい。

小高城の由来は古く築城は1326年(嘉暦元)に遡る。

小高神社の鳥居と本殿。野馬懸が行われる日にはこの鳥居の前が馬場になる。

相馬郷土研究で知られる岩崎敏夫氏によると相馬には六つの大きな危機があったと言われる。
①南北朝時代、北朝につき奥州相馬氏6代当主重胤と次男の光胤が南朝方の戦いに敗れて相次いで死んだこと
②隣国の伊達氏からたび重なる侵略を受けたこと
③関ヶ原の戦い後西軍(石田三成)に味方した疑いによる領地没収の危機
④18代当主大膳亮義胤公急死に伴う一家断絶の危機
⑤天明の飢饉による人口の激減(餓死、病死により人口は以前の三分の一となった)
戊辰戦争で相馬領地が焼け野原になる懸念

奥州相馬氏の家系図をご覧頂きたい。

岩崎氏は相馬が滅亡を免れた理由を次のように語っている。
A君主から家臣隅々に至るまで武士道と質素倹約が行き渡っていたこと
B兵農を兼ねた体制が整えられていたこと
C小藩であるがゆえの結束力
D優れた家臣の輩出
E二宮尊徳の御仕法導入(相次ぐ飢饉からの立ち直り)
F慈隆和尚の迎い入れ(戊辰戦争時の危機を回避)


本城が敷かれた小高に於いても相馬はかつて家の存亡を賭けるほどの重大な危機を迎えることがあった。
それは
1、南北朝時代の小高城落城
2、戦国末期の伊達政宗による領地侵攻時の玉砕覚悟の集結
であった。

これについて詳しく説明したい。
1、南北朝期の危機
1336年(建武3)北朝側についた相馬重胤(6代当主)は鎌倉で北畠顕家を相模国片瀬川に迎撃したが敗れ、一族の岡田胤康らが討ち死にし、重胤もまた鎌倉の法華堂下で自害している。同年、重胤の次男相馬光胤は小高に城を築き、宇多郡熊野堂城の中村広重と黒木城の黒木大膳亮正光を攻撃したが、そのすぐ後南朝方の北畠顕家が大軍で小高城を攻撃し落城させた。光胤はこの時、縁者や家臣とともに討ち死にする。
(但し、翌々年の1338年(建武5)重胤の孫・胤頼を擁した相馬が反撃に及び、小高城奪還に成功)


2、戦国時代末期の危機
1590年(天正18)伊達政宗から新地領を奪われ、窮地にたった相馬家中は和戦派と抗戦派の二つの意見に分かれた。この時隠居していた盛胤(15代当主)伊達の旗下となるの止むなしとの意見を述べたが、義胤(16代当主)伊達へ附随することなく断固抗戦を主張した。この時居合わせた一族郎党は一様にそうあるべきと同意し、感涙にむせび泣いたと言う。そして、その様子に心打たれた盛胤もこれに同意し、討死のお供をしようとして小高城に集まった者五百人近く(侍五十余人、町人百姓四百三十余人)になったと言う相馬は当に玉砕を覚悟しての結束であった。集結した者は妙見の神水を飲んで討ち死にの覚悟を誓い合ったという。

果たしてこの時、折しも豊臣秀吉による北条氏への小田原征伐が下され、伊達政宗を始め、相馬義胤も参陣を果たした。ここに相馬氏と伊達氏との積年にわたる抗争にようやく終止符がうたれ、相馬氏は危ういところで滅亡の危機を回避することができた。そして、小田原参陣を果たした義胤は豊臣秀吉に謁見し、「奥州仕置」の結果、宇多・行方・標葉三郡四万八千七百石を安堵されるに至ったのである。
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最後に南側の城下を見下ろしてみた。奥州相馬氏の祖とされる相馬重胤は下総(今の千葉県北部、茨城県南部)から下向してきたゆえ、彼はこの眺めをどんな気持ちで見たのか、興味の尽きないものがある。野馬追まであと五日と迫ったがモチベーション高揚に大きな成果を果たせた今回の小高城址探訪であった。

本日もご覧頂きありがとうございました。
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