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寝返りを繰り返した黒木城主の遺恨
私は或る季刊誌に歴史エッセイを投稿しているが、殊のほかモチベーションをキープすることに留意している。かつて歴史小説を執筆している時、机にばかり向かっていると意気消沈し時としてペンが進まなくなったことが幾度となくあったからである。そのような時に打開に至らしめてくれるのが現地探訪である。やはり現地を自分の足で歩くことで、それまで見えなかった様々なこと(関わった人物の思い)が瞼の裏に微かに見え隠れしてくるからだ。

昨日の午前中、私は折りたたみ自転車をJR代行バスに積んで相馬に向かった。目的は黒木城跡を訪ねることである。私が黒木城跡を訪ねるのは二度目である。昨年訪ねたのが5月31日のことなので、ほぼ一年ぶりの訪問である。ここは相馬市北西部の黒木地区の集落である。黒木城跡は集落を左側(西側)に行ったところである。

これは前回写真に取らなかった南西側からの全景である。この角度から見ると、比高10メートルほどの何の変哲もない平城である。

私は相馬に転勤してから、宮城県南部から福島県浜通り北部にかけての城跡や館跡を十数箇所周ったが、その主な位置を掲載する。黒が今回訪問した黒木城である。



※左:余湖くんのお城から引用 右:陸奥の城より引用
城の北側に外堀と内堀が二重に巡らされていることに注目。これは北から攻めてくるであろう伊達に備える意味があった?と解釈している。




黒木城に纏わる経過を相馬史と絡めて纏めてみた。(以下は様々なサイトを参考にしながら私が編集しましたが、内容的に指摘するものがある際はご指示ください。)
・801年(延暦20)に坂上田村麻呂の蝦夷征伐の際に築城か?(黒木城立札より)
・その後五百数十年に渡る時期の黒木城は不明。
・1323年相馬重胤(奥州相馬氏の祖)が下総から奥州に下向し行方に居を構える。(年代については若干の異説あり)
・1334年(建武元)~1338年頃、南朝方の北畠顕家についた黒木大膳亮正光が黒木に居を構える。同じ頃、黒木から北に数キロ離れた福田地区(現福島県新地城)に福田古館を構え、この付近一帯を統治する。黒木城は南朝方の防御拠点として機能し、北朝方の攻撃を防ぐ。
※黒木氏の発祥は定かではないが、在地土豪説あるいは北畠顕家家臣説がある。
・1336年(建武3)北朝側についた相馬重胤は鎌倉で北畠顕家を相模国片瀬川に迎撃したが敗れ、一族の岡田胤康らが討ち死にし、重胤もまた鎌倉の法華堂下で自害する。
・同年、重胤の次男相馬光胤は小高に城を築き、宇多郡熊野堂城の中村広重と黒木城の黒木大膳亮正光を攻撃したが、そのすぐ後南朝方の北畠顕家が大軍で小高城を攻撃しこれを落城させる。(光胤はこの時、縁者や家臣とともに討ち死にする。)
・翌1338年(建武4)反撃に出た相馬は小高城を奪還し、中村広重の熊野堂城を落城させる。
・1353年(文和2)態勢を整えた相馬が宇津峯城を落城させ、北畠顕信が出羽に逃れる。(中村氏や黒木氏は没落し相馬家の支配に下る。)
・1542年(天文11)、伊達氏と相馬氏の間で天文の乱が起き、伊達に寝返った黒木弾正信房(黒木城主)と中村大膳義房(中村城主)兄弟が相善原(現・新地町)で相馬盛胤(相馬15代当主)に討たれ、相馬氏による宇多郷支配が確定する。黒木城には相馬重臣の青田信濃守顕治が入城し、その後黒木氏は相馬から養子を迎えて相馬に与した。
・1563年(永禄6)黒木城の青田信濃と中村城の中村式部が伊達の誘いに応じて謀反に及ぶ。
・1565年(永禄8)丸森に幽閉された伊達稙宗が死去し、伊達と相馬の争いが激化する。
・1573年(天正7)謀反に及んだ黒木弾正は黒木城で相馬盛胤、義胤親子に攻められ伊達領に逃亡する。(黒木城跡の立札によると、この時城に残された弾正の妻子は斬殺か?)その後、黒木弾正は伊達に従臣する。
・1584年(天正12)田村清顕・岩城常隆・佐竹義重による斡旋により、伊達氏と相馬氏は和睦し金山城と丸森城が伊達氏に返還される。
・1586年(天正14)三春城主田村清顕が死去し、伊達氏と相馬氏との対立再び激化する。
・1589年(天正17)伊達政宗が宇多郡に侵攻し駒ヶ峯城と新地が相次いで攻略され
・1590年(天正18)相馬盛胤相馬隆胤の軍勢が駒ヶ峯城を奪還するため塚部の小豆畑(相馬市塚部)に於いて伊達側の黒木宗元・亘理重宗の伊達勢と合戦するが敗北し、黒木城主門馬上総守、水谷尾張守、牛渡玄蕃などの重臣が討ち死にし、相馬隆胤(相馬当主・義胤弟)は童生淵(相馬市石上)で討ち取られる。
・同年(天正18)豊臣秀吉の小田原攻めが発令され、参陣を果たした相馬氏は秀吉から四万八千七百石を安堵される。
・その後黒木城は戦略的価値を失い廃城となる。
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城址から北西に目を移すと伊具郡の丸森町大内地区に繋がる県道228号線がある。

これは多くの別サイトで掲載されている案内板であるが、書かれている文字がほとんど判別できないほど朽ちている。

「ポックリ」という文字と「黒木城 延暦二十年(西暦801年)云々」という文字が微かに読み取れる。「ポックリ」からは、あの世に行くときにポックリ逝きたいという意図が読み取れる。

案内板のそばのお地蔵さんには花が添えられていたが、地蔵がポックリ信仰から来るものなのか、或いは城を捨て伊達に逃亡した城主・黒田弾正の斬殺された妻子の霊を弔うためなのかは不明である。

案内板のあたりから城の南部を見てみた。今は水田によって分断されているが、先ほど掲げた「陸奥の城」の航空写真を見ると、戦国期に於いては田はなく繋がっていたものと推測している。

これは前回撮影しなかった北側の外堀である。深さは5~6メートルはありそうである。

東側には民家が建っている。主郭よりやや東側の部分である。

まとめ
今回黒木城を再訪するまで、この城があまりにも数奇な運命をたどってきたため、その概要さえ掴めなかったが、こうして城に関わる経過を整理することで朧気ながら全容が見えてきた気がする。今後はこれを骨格として肉付けを行い、歴史エッセイなどの執筆に繋げたいと考えている。

横町挨拶
本日もご覧頂きありがとうございました。
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