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我が師匠『井澤先生』執筆に向けて
前書き

2015年12月8日更新のブログで、私は自分が尊敬し師と仰ぐ人物を作品に残したいという旨を述べた経緯がある。その大きなきっかけとなったのが国木田独歩の『富岡先生』である。この作品に登場する富岡先生のモデルになったのが本日紹介する富永有隣であったとされる。奇遇にも最近読んだ「司馬遼太郎が語る日本」の中の『松蔭の優しさ』の中で吉田松蔭と富永有隣の関わりについて触れた部分があった。これには大変驚いたゆえ、ほとぼりが冷めないうちに記事に書き留めておきたい所存である。本論に入る前に、ここで登場する三人の概略について触れておく。尚、存命する我が師匠に捧げる作品への構想は昨今、固まりつつある。それに関しては後書きで触れたい。

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     国木田独歩(1871~1908)


千葉県銚子生まれ、広島県広島市、山口県育ち。幼名を亀吉、のちに哲夫と改名した。筆名は独歩の他、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生などがある。田山花袋、柳田國男らと知り合い「独歩吟」を発表。日本の自然主義文学の草分け的存在の一人 。

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富永有隣(1821~1900)

【以下Wikipediaを基にミックが編集】

長州藩士・儒学者。諱は徳、後に悳彦。通称は弥兵衛。有隣は字で、『論語』の「徳は孤ならず必ず隣あり」から命名したとされる。父は長州藩士である御膳夫士の富永七郎右衛門で、有隣はその長男。幼少の頃に天然痘にかかり右目を失明する。歳で長州藩藩校・明倫館に入り、13歳で藩世子(藩主嫡男)に『大学』に講じ。成人後、小姓を務めるが、他人と打ち解けなかったために、同僚・親族らに憎まれ、嘉永5年(1852年)に冤罪で見島に流され、嘉永年(1853年)には萩の野山獄に移された。


そこで同じく幽閉中であった吉田松陰と出会う。安政年(1859年)の出獄後は松陰の計らいにより松下村塾で講師を務め。安政の大獄で松陰が捕らえられると、吉敷郡に帰って秋穂二島村(現在の山口市)定基塾を開いて尊王論を説慶応年(1866年)の四境戦争では、鋭武隊を率いて石州・芸州口で幕府軍と交戦したが、明治維新後の開国政策への不満から、大楽源太郎とともに脱隊騒動を起こして敗北、各地を逃亡する日々を送る

明治10年(1877年)に逮捕されて、年後大審院において有罪判決を受けて国事犯として石川島監獄に収容される。明治17年(1884年)に特赦により釈放され、明治19年(1886年)に熊毛郡城南村(現在の山口県田布施町)に住む実妹の元に身を寄せて帰来塾を開いて後進の指導にあた。著書に『大学述義』『中庸義解』『兵要録口義』などがある。
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吉田松蔭(1830~1859)

【以下Wikipediaを基にミックが編集】

幕末の思想家、山鹿流兵学師範。明治維新の精神的指導者・理論者・倒幕論者として知られる。幼名は杉寅次郎。叔父の玉木文之進が開いた私塾「松下村塾」で厳しい指導を受ける。西洋兵学を学ぶために嘉永3年(1850年)に九州に遊学する。ついで、江戸に出て佐久間象山、安積艮斎に師事する。嘉永4年(1851年)には、交流を深めていた肥後藩の宮部鼎蔵と山鹿素水に学ぶ。


嘉永5年(1852年)、宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たず脱藩。この東北遊学では、水戸で会沢正志斎と面会、会津で日新館を始め、見聞を深めるために東北各地を訪ねた。江戸に帰着後、脱藩の罪に問われて士籍を剥奪・世禄没収の処分を受ける。嘉永7年(1854年)にペリーが日米和親条約締結の為に再航した際には、金子重之輔と二人で、海岸につないであった漁民の小舟を盗んで旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ、乗船した。しかし、渡航は拒否されて小船も流されたため、下田奉行所に自首し、伝馬町牢屋敷に投獄された。

この後、長州の萩へ檻送された後に野山獄に幽囚され、富永有隣と知り合う。安政2年(1855年)に出獄を許されたが、杉家に幽閉の処分となる。1857年、叔父から引き継いだ松下村塾で後の明治維新で重要な働きをする多くの若者を育て塾生には久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎らがいる。1859年、安政の大獄により獄死する。

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後書き
歴史作家・司馬遼太郎は富永有隣のことを人一倍我が強くて、その為に人と相いれない針ネズミのような人物と語っている。野山獄で松蔭と出会った有隣は松蔭よりも九歳ほど年長であり、幼少より長州藩藩校・明倫館に学ぶなど学問はあった。松蔭は同じ長州出身で先輩格の彼に情を掛け、自らの開いた松下村塾に彼を講師として招き入れ、いろいろと世話を焼いたが、有隣自身は松蔭のことを恩人と思わず、終始寅次郎(松蔭の本名)と呼び、吉田先生とは呼ばなかったとされる。私が思うに彼はプライドが人一倍高く、人に媚を売るのができない性格だったと思われる。何を隠そう、有隣には私の性格との酷似を感じている。

そのあたりの事情は独歩の作品の『富岡先生』にも表されている。独歩が50歳も年上であった有隣と出会うきっかけとなったのが、彼の育った山口という土地柄(同郷)であった。独歩が先生と仰ぐ富永有隣から多くの影響を受けたのは想像に難くない。禅の教えに「清流の水が澄めば魚も棲めなくなる」という言葉があるが、孤高を通り越し偏屈と取れる有隣の生き様にはそれを彷彿するものがある。実は私が師匠と慕う井澤先生(仮名)は有隣とはまったく逆の志向を持った人物である。作品の構想が固まれば骨子ができたのと同然、後はリズムに乗って一気にペンを走らせるのみである。執筆への大きなモチベーションをもたらした司馬氏には、謹んで感謝申し上げたい所存である。
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皆様、本日もご覧頂きありがとうございました。


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