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 ショパン「幻想即興曲」 
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「光陰矢の如し」、「少年老い易く学成り難し」、「馬上少年過ぐ」…若い頃には考えもしなかったことだが、振り返ってみると人生は短い。あっというまに時は過ぎ去った気がしてならない。年を重ねるとほとんどの人はそう思うのではないだろうか。1分10秒頃から始まるこの曲の旋律を聴くと、改めてそういう思いに駆られ、人生の儚さを重ねてしまうのである。では、その儚い人生で人は一体何ができるのか?言語を用いて人は何を目指さねばならないのか?をテーマに、本日は皆様と一緒に考えてみたい。
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尊敬語と謙譲語の使い分けで何が得られるのか?
尊敬語と謙譲語は我が国の武士道の中核を成した儒教の古き善き遺産である。但し、これらは新人類以降の新しい世代の台頭により過去のものになりつつある。本日はこのあたりに照準を合わせて、私論を展開してゆきたい。少々辛口の口述に及んだ際は、これも老婆心がもたらす新世代へのエールと察して頂き、何卒御容赦願いたい所存である。

人のことを、ああだこうだと述べる前に先ずは私のことを述べたい。私は四十代半ばで、あるきっかけで尊敬語と謙譲語をマスターしたいと考えた。それまでの自分は人として未熟であり、円滑な人間関係を構築するのに必定とされる交際術と言うべきものを持ち合わせていなかったと感じたからである。

三十台後半頃の私は尊敬語はある程度自分のものとしていた。但し、人に物事を頼むなら、謙虚な姿勢も求められる。驕りや昂ぶりは無用である。従って人から褒められた場合は自制心が求められる。然らば、尊敬語だけでの世渡りだけでは心もとないのである。

「表裏一体という言葉の如く、表敬語と謙譲語は一対の存在でなければならない。これが成就してこそ初めて美徳となる。」これがこの時の私の出した結論だった。儒教の教えであるところの「他人への表敬と自己謙譲」は我が国の倫理の根底を為す中核である。はっきりと申し上げるが、今の若年層の多くはこのへんがあやふやであり、その真意を理解していない御仁も多いと認識している。

机上論はこれくらいにして実例を挙げよう。私のブロ友様のうちの数名のかたは謙譲語として「とんでもございません。」or「滅相もございません。」という言葉を用いられる。この謙譲語は今でこそごく自然に受けとめらる言葉であるが、私がこの言葉に際したのは恥ずかしながら三十台後半であった。この言葉を初めて聞いた時は大きなインパクトを受けたし、今までの自分に不足していた裁量を実感した瞬間でもあった。

その時から、私は己の勉強不足を恥じて、実践を通してどういう際に謙譲語を使う必要があるのかを学んだ。残念ながら、こうした教訓は仕事を通してのOJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)からは十分には得られなかった。能動的見地に立ち、私が求めたのは話術に精通した人物から得る手本であり、それ以外の媒体としては著物や動画からである。動画では歴史番組や時代劇の一場面からヒントを見出したことも少なくなかったと認識している。

封建時代において、格下の者が上位の者に進言する際は必らずと言っていいほど、言葉の始めに「恐れながら」という付属詞をつけなければならない。これには「己の領分を越えての進言を何卒ご承知ください」という意味が込められている。私はこうした裁量は過去の遺産でなく、現在でも美徳として通用するものと受け止めているのである。ビジネスに於ける弊社と当社の使い分けもこれに似た意味合いがある。

こうした経緯を経て謙譲語をスムーズに使えるようになるのに、十年以上は要した気がする。さて、「尊敬語と謙譲語の使い分けで何が得られるのか?」という冒頭の自問にお答えしたい。「この二つを自分のものとすることによって話術に幅ができ、自分の誠意を伝えることで、少なくとも以前より人の心を掴むことが可能になった」ということである。もちろんこうした志向は完成に至ったものではなく、これからも様々な人との社交を通じて、常に磨いて行かねばならないものと感じている。生涯学習の掲げる「日々是修行」を道と心得る私の昨今である。

皆さん、本日も駄文をお読み頂きありがとうございました。


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