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 Giuseppe Verdi Triumphant March 

リンク曲解説
サラリーマンとしての私は「名誉」を貫くことで生き残ってきた。但し名誉を貫くには自分自身を制する必要がある。即ち、人に自分の名誉を認めさせる前に、己自身に課すことがある。それは世の倫理に対して背くことがないということである。己の倫理観がしっかりしてないと砂上の楼閣の如くその体系は危ういものとなる。その倫理の礎になるものを考えるとき、最も先に思いつくのが儒教である。

我が国の武家社会に於けるイデオロギーが武士道であり、武士道の真髄が儒教(人によって儒教を宗教と解釈する向きがあるが私はイデオロギー的な色合いが強いものと受け止めている。)ならば、縦の構造から成る侍社会と酷似した現代のサラリーマン社会に、その理念を適用できないことはないと考えたのである。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は 住みにくい。」の中で今の私が最も実感しているのは「意地を通せば窮屈だ。」である。

本日リンクしたジュゼッペ・ヴェルディのTriumphant Marchはオペラにも使われる格調高い曲ゆえ、名誉を語るに相応しいリンク曲と捉えリンクに及んだ次第である。余談であるがこの曲がウルグアイ国歌、アルゼンチン国歌などに見られる威厳を含んだ旋律となっているのは極めて興味深い点である。

エッセイ「ブログも実社会も意地を通せば窮屈だ」
何もそこまで意地を張らなくても…、こういう言葉を今まで何度掛けられたかわからない。但し、これは躁鬱病を患った者の宿命と受け止めている。人間の手足の骨折を例に挙げよう。一度骨折したところは修復される際に前の断面より確実に太くなる。これは一種の生体反応である。躁鬱病になった者は必ず鬱病の過程を経てきている。従ってもう一度鬱オンリーに戻らないために無意識の中でこうした第三の性格が構築されるものと私は認識している。

或る運送会社はそれまで年下だった同僚が係長に昇進した時点で呼び捨てで名前を呼ばれるということである。ここで「俺は君の年上だから君付けを止めてもらえるか?タメ口を止めてもらえるか?」と言えるか否か。私は今までこのような場面でファイタースピリッツ(ボクシング用語:あまりフットワークを用いず、己の強打を武器に打ち合いを厭わないスタイル)を貫いてきた。但し、その代償は大きい。「あいつは自尊心が強い。だから使い難いから適当にあしらっておけ。」という図式が自ずと見えてくるのである。ここで言えることは「魂を売っても、売らなくても修羅場には違いない。」ということである。私の選んだ結論は「どうせ修羅場ならば売らないほうを選ぼう。」であった。

上役に魂を売らなければ自ずと取り巻きが少なくなる。一匹狼と言えば聞こえはいいが、一歩間違えば単なる無頼漢であり一介の浪人である。但し、浪人の分際とは言え武士は武士。しっかりと刀(懐刀)だけは差しているのである。武士ならば果し合いを挑まれればこれを潔く受けなければならない。その果し合いに備えての日頃の稽古は欠かせない。ここで言う稽古とは様々なシチュエーションを想定したシュミレーションのことである。

刺し違えるのは己の本望だが単なる猪武者であってはならない。その大きな根源にあるのが思想哲学の吸収である。今思えば、「孫子の兵法」などの中国の古典にはだいぶ助けられた。但しそれだけではない。兵法には「彼を知り己を知らば百戦危うからず」という言葉がある。さすれば、使われるほうの考えのみでなく人を使うほうが一体何を理想理念としているかを把握する必要がある。それには帝王学を学ぶのが必須である。私は『貞観政要』やマキャベリの『君主論』などを読みあさり、使う側の理念も吸収してきた。彼らが「君主論など知らない。」というのであればその時点で勝負はついたことになる。然らばそういう彼らには、敢てダメを押さないのが侍としての情であり、美学と察している。

定年まであと僅かとなった昨今だが、このスタンスはこれからも変わらない。私のようなサラリーマンライフは、けして誰にも進められる生き方ではないが、深読みだけはしないようにしている。ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士は「現実は複雑である。あらゆる早合点は禁物である。」としているが、公私に関わらず慎重な対応を以って様々なトピックスに対処して行きたいと思う私の昨今である。

今夜も粗書をご覧頂きありがとうございました。
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