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「知るは愉しみなり」
本日、昼頃私はJR代行バスで相馬に向かった。目的は相馬郷土研究主催の歴史講演会に出席することである。私は例によって相馬の家紋である「繋ぎ馬」のバッジを付けて出席した。伊達に仕えた者を祖とする私にとって宿敵だった相馬に対して敬意を示すためである。



相馬の市街地中心部はは中村と言われる。中村の裏通りを行く私。その昔、このあたりには花街もあったが、今は飲み屋街と化している。



歴史講演会が開かれたのは相馬市中央公民館である。歴史研究会への出席は今回で六回目である。このあたりは藩政時代に侍屋敷のあったあたりである。



中央公民館の玄関ホールは野馬追にちなんだものが常時展示されているが、左側の旗指物が私の付けているバッジと同じ「繋ぎ馬」である。本日の歴史講演会はブロ友様の暇人ITYさんを誘い、快く同意を頂き、一緒に受講する運びとなった。暇人ITYさんは相馬の隣町である南相馬にお住まいのかたで歴史講演会には二度目の同席である。暇人ITYさんにはこの場を借りて本日の厚誼に感謝申し上げる次第である。



本日の講師は相馬市史編纂委員を務める藤原一良氏(左)である。藤原氏は自作歴史エッセイ『相馬藩士志賀直道への想い』の校正でお世話になった経緯もあり、講演前にこちらから名刺を渡し挨拶に及んだ。藤原氏は現役時代に国語の教師を勤められたとのことであった。



本日のレジュメをご覧頂きたい。テーマは「近世の飢饉と中村藩」である。我が国において古代から近世に至るまでの1800年間には370回もの凶作があったとされる。これはおおよそ4.8年に一回の割で発生しており、昔人にとって、台風や地震などの自然災害を上回る脅威であったことのようである。



全国的な主な飢饉としては下記の四大飢饉が有名である。



これは東北地方の四大飢饉である。全国のものとは享保と宝暦が入れ替わることになるが、このほかにも多くの飢饉があり多くの人が餓死したり、疫病を患い亡くなっていったようである。

ちなみに相馬中村藩は18世紀初頭に約9万人あった人口が1835年の天保の飢饉で3万8千人弱まで減少し、対策として越前や北陸ら闇ルートで人を向かい入れたり、女買い入れと言って他の地域から女性を買い取り相馬の独身男性との縁組にしたいきさつがあったようである。また相馬の年貢には検見取制が適用され米などの穀物の出来高に応じた年貢率が算定されていたとのことであった。

何と言っても相馬の疲弊した国力を立て直したのが二宮尊徳の「興国安民法」(相馬では尊徳に敬意を払い「ご仕法」と呼ばれる。)である。二宮尊徳は一度も相馬に足を運ばなかったが、戊辰戦争時の混乱で相馬は尊徳の子や孫を自領に招き入れている。


「知るは愉しみなり」を改めて実感した本日の歴史講演会であった。
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