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 旧道「夜討坂」を訪ねて
旧道にはロマンがある。旧道に佇み、目を閉じ在りし日の昔人の想いに浸れば、かすかに遠い日の喜怒哀楽が瞼に浮かんでくる。悠久の時の流れに己の身を委ねれば、是あたかも大河に浮かぶ小舟の如し。

小舟が激流に飲み込まれてひっくり返るも、しばし緩い瀬をゆったりと行くものになるも、全ては運任せである。今まで私は様々な旧道に接してきたが、昨今は想像できる範囲を少しでも膨らませ、幻影(小舟の行く末)を見るのを楽しみにしている。その小舟は時として侍であったり、百姓であったり、商人であったりする。そんな私が今傾注しているのは「夜討坂」という亘理町西部の峠道である。

先日、亘理町図書館でこのような資料を見つけた。亘理町立郷土資料館発行の『亘理の郷めぐり』(編集者:鈴木光範氏)である。

先月息子とともに二度訪れた「夜討坂」(ようちさか)についてはほとんど情報が得られないものばかり思い諦めかけていた矢先であったが、わらにもすがる気持ちでこの本を図書館で読んでいるうちに、遂にこの坂について触れた部分を発見した。

この坂の名前の由来は戦国時代に伊達が相馬に夜襲をかける際に用いたということを聞いていたのであるが、その裏づけとなるものであった。このように、亘理から夜襲をかけて藤田城(実際は館と思われる)を攻略したとされる。

現在は角田市に位置する「藤田」と言う地名は初耳であった。(下の資料は角田市史から引用)赤い部分が藤田である。尚、数字は藩政時代に於ける各城主の石高である。幕藩体制になってからも仙台藩は一万石を越す家臣を藩の南部に配置した。鹿児島国際大学の太田氏によると、南から攻めうる徳川幕府を見据えた構えとも解釈できるという見解である。

位置関係を把握するため、航空写真に藤田館を落としてみた。
以下伊達側
黄緑丸:亘理城(小堤館)
紫丸:角田城
※※※※※※※
以下相馬側
赤丸:藤田館
橙丸:金津城
オレンジ丸:金山城
※※※※※※※
黄色菱形:夜討坂
※※※※※※※
伊達側は夜討坂から兵を送ることで、角田城との友軍態勢を構築し、藤田館の相馬に圧力をかけたのではないだろうか?

これは去る3月31日、息子とともに夜討坂を登った時の写真である。夜討坂登山道は吉田地区の長瀞ガーデンの北に隣接する中條沢からアプローチすることになる。

登山道の採石場のダンプカーの通路を西に進むと右手に墓地が見えてくる。墓地が途切れたところが夜討沢の入口である。

300メートル近く沢沿いに進むと、いよいよ急斜面の坂が待っている。(矢印方向が進路である。)

かなりの急勾配がしばらく続く。三度ほど休憩をしながら峠の辻(尾根道と交わるところ)へと向かった。

夜討坂には唯一の祠が存在する。前回も紹介した明治時代に立てられた山神の祠(地元ではサカキと言われる)である。

坂を登りきったところに辻があり、そこに「夜討坂」の看板が掲げられている。河北新報社発刊の『みやぎの峠』によると大正6年の『亘理郡史』に夜討坂のことが書いてあるという。それによると

「夜討峠、坂津田區にあり亘理郡吉田村及び亘理町に通ずる山道にして人馬の交通甚だ不便である。元荒浜港より魚類其の他海産物を角田町及び伊達郡地方へ移出す要路であったが、割山新道開通後は殆ど廃道に属している。往時、伊達相馬氏交戦のありし当時、夜襲を以ってこの名ありと言う」(ミックが現代言葉に変換)

土地の年配のかたに聞いたところとの峠は割山峠開通(明治15年)以降も昭和の頃まで使われていたとのことであった。資材を運ぶのには馬も使われたというが畦道並みの道幅ではこのように馬をひいて通るのが精一杯だったのではないだろうか?

ちなみにこの峠道は、現在樹木が繁茂していて眺望はほとんど効かないが、古くは遠くまで眺望が開けたという。『風土記御用書出』には「夜討峠 長六丁八間 東ハ亘理郡亘理町西ハ当郡角田町江之通路」とされ、「東ハ鳥ノ海 南は相馬領羽黒山 西ハ蔵王嶽 北ハ金花山(金華山)」とその大眺望が述べられているとのことである。

今でも目を閉じると甲冑を纏ったもののふどもが汗だくとなって、荒い息づかいで坂を登って行くような気がする。或いは行き交う百姓や商人たちの活気が伝わってくるような気がする。私は近いうちにこの記事をベースにして新たな歴史エッセイを執筆したいと思っている。
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