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仙台藩士幕末世界一周

今、或る仙台藩士の本を読んでいる。その本は『仙台藩士幕末世界一周』玉蟲左太夫(たまむし さだゆう)外遊録である。訳者の山本三郎氏は玉蟲左太夫の子孫に当たる人物である。

玉蟲左太夫(1823~1869)
仙台藩士玉蟲伸茂の末子として生まれる。1846年(弘化)に江戸の湯島聖堂で学び、その塾長となる。1857年(安政)に箱館奉行堀利煕と共に蝦夷地を調査し「入北記」を著す。1860年(万延元年)日米修好通商条約の批准書交換使節団の一員として渡米した、帰国後大番士となり、のちに養賢堂(仙台藩藩校)指南統取となった。1868年(慶応)戊辰戦争が勃発すると奥羽越列藩同盟の成立のため尽力し軍務局副頭取となった。1869年(明治)敗戦後捕縛され獄中で切腹

1860年に日米修好通商条約の批准書交換使節団を運んだのはポーハッタン号と咸臨丸で咸臨丸は勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎らも乗船していたが、太平洋で嵐に遭い、損傷も激しく修理の後に日本に引き返している。

この船が玉蟲左太夫らが乗ったポーハッタン号である。蒸気船と帆船の機能を併せた船であった。

赤線がポーハッタン号の航路である。咸臨丸がサンフランシスコに直行したのに比し、ポーハッタン号は燃料補給のためハワイ経由の航路となっている。

玉蟲らはその後キューバ経由でワシントンやニューヨークを周り大西洋からアフリカ最南端の喜望峰、東南アジアを経て日本に帰国している。

これはポーハッタン号の甲板での、出港を祝うパーティーの絵である。(横浜開港資料館所蔵)

これは1860年5月26日付けのフランク・レスリー・イラスト新聞に掲載された使節一行でパナマのアスピンウォールからローノーク号に乗船する絵である。(東善寺所蔵)下向き加減に日本の侍たちが、かしこまった表情をしているのが印象的である。左太夫はその行程を膨大な量に上る日誌に記録しているが、日誌では日本側の使節がアメリカ側に諂い、へりくだる様子を歯痒い思いで見ていたことが窺える。

太平洋で壮絶な嵐に遭遇する咸臨丸。日誌では左太夫の乗ったポーハタン号も何度か嵐に遭い、生きた心地がしなかった旨の日誌を残している。

ワシントンの海軍造船所を訪問する渡米使節一行。造船所で最先端の造船技術に接するのも大きな使命の一つであった。

玉蟲左太夫は下級武士出身であったが、有能だったがために、帰国後に戊辰戦争で会津藩主との交渉を託され、敗戦後は仙台藩の早とちりで切腹に処せられた悲劇の人物である。私はこの本を読み、彼に対しての興味が一層深まってきたので、今後の歴史研究のテーマに是非取り入れたいと思っている。
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