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 つわものどもの怨讐渦巻く夜討坂
私と息子は阿武隈山地の鴻ノ巣峠の断崖絶壁に遭遇した後、尾根道を更に南に迎い遂に夜討坂(ようちざか、夜討峠とも)に出た。鴻ノ巣峠から閑居山までは10分以上時間を要したが、閑居山から夜討坂まではわずか数分しか掛からなかった。ここは戦国時代に伊達が相馬に夜襲を仕掛けた際に通ったとされる道である。亘理側から伊具(角田、丸森方面)に抜けるということは尾根道とは「十の字」に交差することになる。

それでは夜討坂のセクションを航空写真で御覧頂きたい。黄色で囲んだ辺りが夜討坂があったとされる場所である。「あった」と過去形で述べたのはこの峠道が既に廃道になっているからである。
※約1.7倍に拡大可能

ここが尾根道と十字に交わる交点である。(向こう側が黒森山、四方山方面、右側が伊具方面、左が亘理方面になる。)

伊具側は草木が繁茂していて、どこが道なのか皆目見当がつかない。

土地の古老の話によると、昔の夜討坂はかなり人馬の往来が活発だったと言う。但し、これは藩政時代に入ってからのことで、通商交易を目的としたことであったのだろう。では群雄が闊する戦国時代はどうだったのだろう?恐らく、その時代の夜討坂は獣道に毛が生えた程度のものだったのでないだろうか?

これはあくまでも私の推理だが、1560年代から伊具を巡り伊達と相馬との間に領地獲得合戦が頻発した後、伊達がこの峠道に戦略的な価値を見出だしたのは1576年に矢野目館の戦い(本ブログの書庫「伊達と相馬の研究」参照)で相馬に大敗のを喫し巻き返しを図るため、この峠道から大軍を送り込む必要に迫られたのも一因ではなかろうか?このあたりはあまりにもマイナーなことなので、郷土史研究家の文献をあさっても、なかなか日の目を見るのは困難と察している。
橙:亘理城
赤:矢野目館
黄色:夜討坂
※約1.7倍に拡大可能

峠から亘理側に下り始めてすぐに山神の祠があった。刻字を見ると明治時代建立である。恐らく通行人の安全祈願への祈りが込められた祠であろう。

しばらく坂を下るとこのような急な左斜面に出くわす。雨上がりで道がぬかるんだ時時などは、馬を通すのもおぼつかないという印象を受けた。

最後はこのような急な下り坂が待っている。馬をひいていくにも難関のようだが、この道が往時のままなのか、それともかつては勾配を緩くする目的により、ジグザグになっていたのか、今となっては知る由もない。

里に近くなるにつけ道は太くなる。亘理側からアプローチされるかたは長瀞ガーデン北西部に隣接する墓を西に進めば夜討坂入口に至る。(夜討坂入口との標識あり)

ちなみに夜討坂という地名は今ではあまり知られてない呼び名であるが、中條沢を目指してアプローチすれば、必ず夜討坂入口に行きあたるはずである。

無事に下山して息子とともに胸をなで下ろしながら三分咲きの梅を楽しんだ。夜討坂探索では大きなモチベーションを掴んだので、これを利して新たな歴史エッセイでも書きたいと思っている。
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