fc2ブログ
榎本武揚と石巻
                                      榎本武揚(1836~1908)


以下国立国会図書館「近代日本人の肖像」より引用し横町が編集
1836年、幕府御家人下級武士の次男として生まれる1856年長崎海軍伝習所に入所。文久1862年から4年間に渡りオランダ留学する。明治元年(1868年)海軍副総裁となる。江戸城開城後、官軍による軍艦の接収を拒否し、函館五稜郭で官軍に抵抗するが降伏。黒田清隆の庇護の下、北海道開発に従事。明治年海軍中将兼駐露公使となり、翌年樺太・千島交換条約を締結。海軍卿、駐清公使を経て第次伊藤内閣逓相に就任。黒田内閣農商務相・文相、第次山県内閣文相、第1次松方内閣外相等を歴任する
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
フェニックスと言われた港町石巻
実は、港町石巻は私の出身地である。戊辰戦争で新撰組とともに、幕府側の最後の抵抗勢力であった海軍副総裁の榎本が石巻に立ち寄ったのは今から148年前のことであった。彼は石巻で足跡を残している。

榎本武揚の石巻滞在を書き表わすならば吉田松陰の石巻訪問のことも触れねばなるまい。実は松蔭が石巻を訪れたのは榎本が訪れた16年前の1852年春のことであった。彼の訪問目的は港町石巻の潜在能力を探ることであった。これについては機会を改めて別の記事でお伝えしたい。

※左:榎本武揚と土方歳三、仙台藩額兵隊隊長・星恂太郎らが泊まった毛利邸、右:榎本が宿泊したとされる部屋


坂本竜馬、吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛…、幕末のヒーローは新政府軍(薩長軍)には数多く存在する。但し、幕府軍にもヒーローは存在するのである。私はそれを公平に評価するべきと考えている。幕府側の人材では、新撰組の土方歳三と榎本武揚がその双璧と捉えている。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
私は昨今『港湾にみなぎる進取の気風』を読み、中世の石巻の生い立ちについて、改めて感銘を深めた。それは、伊達政宗公の北上川開削事業である。


著者紹介
橋本晶(1916~1991)
石巻市の郷土史家。石巻市教育委員会時代は志賀直哉の生家(石巻市住吉町)を訪ねた作家・阿川弘之の案内役を努める。直哉の生家を突き止めた橋本氏に対して、阿川氏は彼の郷土史に関する研鑽ぶりを讃え、後に「橋本学」と称せられた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
時代は榎本武揚の頃からかなり遡る。江戸時代中期(1700年代)の石巻をご覧頂きたい。千石船停泊で賑わう石巻港。これは私のブログの過去の記事で数度に渡って掲載した資料(東北大学所蔵)である。1689年に石巻を訪れた松尾芭蕉もこれと寸分違わぬ光景を見ていたに違いない。

この時代、江戸で消費される米の1/3~1/2は石巻から出荷されたものであったとされる。これによって仙台藩の実質的な石高は百万石を越えるに至ったのである。



伊達政宗公の北上川開削事業とは一体どんなものであったのか?貞山運河事典でご確認頂きたい。左下の図を見て違和感を感じるかたも多いと察している。北上川が石巻に注いでないからである。この時の石巻は貧しい寒村に過ぎなかったとされる。

1606年以降になってようやく北上川が石巻に注ぐようになる。但し、この大土木事業については政宗公の命とは言え、謎が多いとされている。


1617年以降の北上川改修事業には川村孫兵衛が関わったとされる。

川村孫兵衛重吉(1575~1648)
天正三年長州(山口県)に生まれる。毛利家に仕え、二十代前半、伊達政宗に抱えられ家臣となる。治山治水に優れた技術を発揮、政宗の命令で北上川改修工事の責任者となる。工事は1616~1626に至り、工事費捻出のため自ら借財に及ぶ。工事現場に泊まり込むなどして労苦を重ねる。この大改修により石巻から盛岡に至る舟運が開かれ、葛西家滅亡後寒村に過ぎなかった石巻は一躍米の集散地となる。河口周辺には仙台、盛岡、一関、八戸各藩の米蔵が立ち並び、江戸へ米を運ぶ千石船が往来し繁栄を極めた。この治水に伴って北上川流域では三十三万石余の新田開発も行われた。工事完成後は石巻に永住し73年の生涯を終える。

川村孫兵衛は石巻市門ノ脇地区の普誓寺には孫兵衛と妻の墓が祀られている。屋根付きの墓には彼の石巻への図り知れない貢献(石巻では英雄)を感ずるものである。


こうしたいきさつを経て石巻は東北唯一の港町となった。その経過をダイジェストで表すなら
①伊達政宗公による骨格形成
②川村孫兵衛による大規模土木工事事業(北上川開削)の成就
③仙台藩自作米の江戸への大量出荷とそれによる繁栄
④近代における遠洋漁業興隆の追い風
⑤東北本線開通に伴う石巻港の衰退



横町考察
昭和6年に石巻を訪れた高村光太郎は石巻を次のように綴っている。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
中ノ瀬嶋を中洲にしていかにも古風な湾曲を見せて落ち着きはらった、今引き潮の強い波をあげているこの川を誰が人口の川と呼ぼう。自然の流派追波川の水を横から鹿又でもぎとり、第四期沖積層の幾キロメートルを貫いてほとんど天工に等しいこの河口の港を造り上げた昔の奴はすさまじい。。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
私は自分の先祖調べに及んで、北上川の石巻開削事業への関与(親戚A氏によると父方の先祖は藩政時代に伊達藩の車力、人足として川村孫兵衛につき、労務に携わった可能性が高い。)が伺われる。ゆえに、私の先祖こそは、高村光太郎の言う「昔の奴は云々」であったに相違ないと受け止めている。港町は古来から栄枯盛衰を繰り返すのがその指向である。(フェニックスのような位置づけ)従って我が故郷石巻には、その普遍性を感じて止まないのである。
関連記事

トラックバック

トラックバック URL
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)