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港町酒田の興隆と日本海文化の伝播
ブログをやって良かったと思うのは日本全国のブロ友様から各地の情報が届くことをである。そのブロ友様の一人に庄内の酒田にお住まいのかたがおられる。そのかたからは藩政時代に北前船で栄えた古き良き時代の酒田に関する情報を頂き、大変感謝している。感謝と申し上げたのは、私の出身地が藩政時代に庄内酒田と同じ港町として栄華を呈した石巻だからである。

良著との出会いは人生に潤いをもたらすが、最近私は非常に良い本に出会った。それがこの本『港町にみなぎる進取の気風』である。片や日本海に面した港町酒田。片や酒田とほぼ北緯を同じくして、太平洋側に石巻という港町がある。貿易港として江戸時代に発展した二つの港町は、大変不思議なことに性格から言っても、生い立ちから言っても瓜二つなのである。酒田にお住まいのブロ友様には、ブログを通じた多くの情報の伝播が今回のこの本の読書欲に繋がったことに、この場を借りて御礼申し上げたい。

『港町にみなぎる進取の気風』は七名の著者によって書かれた本である。
赤:童門冬二著『最上川流域に庄内米と大名をしのぐ日本海文化』
黄色:橋本晶著『伊達政宗の雄志が生きる東北随一北上川の河口地』
今回紹介するのは童門冬二の『最上川流域に庄内米と大名をしのぐ日本海文化』である。

『最上川流域に庄内米と大名をしのぐ日本海文化』では酒田港の発展の礎を築いたのが河村瑞賢(酒田市の日和山公園に銅像がある)としている。

河村瑞賢(かわむらずいけん 1618~1699)
名は義道、通称十右衛門、平太夫。伊勢(三重県)出身、出羽の国酒田からの西回り航路を開拓した江戸時代の豪商。貧農の家に生まれ、土木工事の車力(人夫)を経て、漬物屋から土木建築業に身を転じる。明暦の江戸大火では材木の買い占めで利益をあげる。鉱山や新田の開発、東廻航路・西廻航路の整備淀川治水のための安治川開削などの事業を手がけ、後に旗本にとりたてられる。

とにかく河村瑞賢は先見の目があったようである。海が荒れ非常に危険とされた山陰地方沖の海路を通り長州(今の山口県)を迂回しての瀬戸内海航路の開拓が、上方や江戸への開運流通の根底を大きく変えるものとなった。伊勢出身の瑞賢がヒントを得たのは京都の豪商・角倉了以(すみのくら りょうい)であったとされる。また、興味深いことに角倉了以がヒントを得たのは備前倉敷の高瀬舟であったとされる。

このあたりには、世界史の西欧各国の「大航海時代」のヴァスコ・ダ・ガマ(ポルトガル)のインド航路開拓の縮小版のような印象を受ける。

大正2年に於ける酒田周辺地図をご覧頂きたい。(まちあるきの考古学サイトより引用)

向酒田は今でいう川南地区であるが、中世のころは藤原秀衡の妹の徳という人物が源頼朝の藤原征伐を逃れて落ち延びたとされる地域である。

これは川南地区の寺に安置された徳尼公の座像。(インターネットから転用)

徳尼には36人の家臣がついてきており、その36人の武士がやがて商人となって、藩政時代の酒田の自治を守ったとされるが、あくまでも仮説の域を出ていない話のようである。

港町石巻に関する『伊達政宗の雄志が生きる東北随一北上川の河口地』(橋本晶著)は次回以降でお伝えしたい。
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