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私は今からちょうど10年前にうつを患い人生の挫折を味わった。うつになると名誉と信用が著しく損なわれるのは私に限ってのことでないと捉えている。これは、周りの人間が、うつになった時の人間を見て「やる気がない。能力がない。」などと勘違いし、「偽りのレッテル」を貼ってしまうからだ考えている。私はここ数年に渡ってそれを払拭するのに躍起になって取り組んできた。

言葉を変えるのならレッテルを貼った連中を見返したいということである。これが近年は大きなエネルギーになってきたのは事実である。信用は仕事で実績を重ねることである程度取り戻したが、名誉を取り戻すのは容易なことではない。うつが治ると多くの場合性格までが変わるため、これを良しとしない人物は心情的に名誉を認めたがらないとも受け止めている。私は「中編小説『我が後半生と武士道』の中にも著したように、己の名誉の回復を新渡戸稲造の『武士道』を吸収することで履行してきた。そしてその武士道の中核となる儒教の心は論語で学んだ。

論語を学ぶ動機となったのは、百人百様とも言えるあやふやなモラルについて学びたいという目的もあった。更に組織を統率しようとする者の一つの理念とされる『君主論』(著者:マキャベリッツ)を学んだ。但し、それだけでもまだ不足しているものを感じていた。それは、世にはコンプライアンス(規則)やモラルにも属さないことがあまりにも多いからである。

例を挙げるならば志賀直哉の祖父の直道が相馬家の親戚筋の大名家族の財政立て直しに於ける手法を「官には針を入れず、私に車馬を通ず」(表向きは針も通さないほどの小さな穴と思っていたら、実は車でも馬でも通ってしまうほどの大きな穴であった。…転じて、潰れかけた家を再興するには、経費などを厳重に取締り、返済などの決められたことを固く守らせるようにしながらも、裏口からは救いの手を差し伸べてやるような寛大な手法が肝要)としたことなどは禅の教えから来ていると察している。

私はモラルにもコンプライアンスにも属さない問題を解く鍵が「禅」にあると踏んだのである。

もし人から「あなたにとって欠けている裁量は何か?」と問われたら「他人を許容する気持ちです。」と答えることだろう。「水至って清ければ魚棲まず」は禅ではないが、江戸時代の山本神右衛門常朝(1659~1719佐賀藩士から出家し『葉隠』の口述者として知られる。)の言葉であるが、数年前の私が知人から言われた言葉でもある。大変耳の痛い話であるが自分に厳しく、他人にも厳しくというスタンスが極限に及んだ際は人が寄り付かないほど、煮ても焼いても食えない人物(堅物、偏屈の類)になりかねないということである。

私はこれまで、ブログでのマナーの大切さ(礼節、至誠、信義、忠恕)を訴えてきたがほどほどにしないといけないと受け止めている。

知っていて知らない振りをして相手の面子を潰さない手法と同じように、時として見て見ぬ振りをするもの人付き合いには肝要と感じている。

私は今禅の本も読んでいる。こうした文献に触れることで己の見聞を広めるとともに、自分に最も欠けている裁量をしっかりと把握し、少しでも補足たいと思っている。
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