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横町挨拶
この作品は三年前に東北福祉大学教授である岡田清一氏の歴史講座「戦国後期における伊達と相馬」を受けたことをきっかけに、その後様々な文献を参考にし、数度に渡る現地取材を経て創作に及んだ歴史エッセイである。史実には忠実に書いたつもりだが、資料をすべて読んだわけでなく自信はない。また、一部には私の私見を加えた部分もあることを始めにお断りしたい。

いずれにしても佐藤為信という一人の相馬の武将の寝返りが戦国期後期の伊達と相馬の戦局に大きな影響を与えたには間違いない。読者の皆様に於かれては忌憚のないご感想などをお聞かせ頂ければこの上もない幸いである。

歴史エッセイ『忠義か因果か?佐藤為信の生涯』
丸森町の小斎地区を訪れたのは2015年9月中旬のことであった。この地は戦国時代末期から幕末に掛けて佐藤宮内という伊達の家臣に託されてきた土地である。 

伊達と相馬の間で烈しい領地獲得合戦の行われた1570年代、両軍の攻防の要衝であった小斎城(紫小屋館)は当にその渦中にあった。小斎城のすぐ東に目を移せば、1571年(元亀2年)に伊達側の愛宕山城(現亘理郡山元町坂元)が相馬盛胤(第15代相馬家当主)の猛攻を受けて落城したが、翌年には伊達側によってすぐそばに蓑首城が構築され、愛宕山城で討ち死にした坂元大膳の嫡男坂元三河が配されるなど、両軍の戦いは一進一退の様相を呈するものとなった。

更に、1576年(天正4年)には小斎城や冥加山(小斎城の南側に位置する丘)に陣取った相馬と矢野目館(小斎城から西方600メートルに築かれた平城)に陣を構えた伊達との間で合戦があり、相馬側の囮作戦によって伊達の多くの騎馬武者(七百とも)が討ち取られたとされる。紫桃正隆「宮城の戦国時代 合戦と群雄」より)このような戦局に於いて、伊具の東端に位置する小斎城を手中に収めるのは両軍にとって戦略上、非常に大きな意味があった。

小斎城が相馬の手に渡ったこの時、相馬盛胤は小斎城の守りを固めるために普請を施し、城主に佐藤為信を配して来るべき時に備えていた。しかしこの人事こそが後の両軍に大きな影響を与えることになる。

    ※相馬側の相次ぐ普請で守りを固められた小斎城(柴小屋館)の土塁跡

混沌とした情勢の中、為信にとって願ってもない機会が訪れたのは1581年(天正9年)の春のことであった。讒言によって軍奉行を解かれ、領地を三邑没収された亡き父(佐藤伊勢好信)の怨念を晴らす絶好の好機が遂に訪れたのである。伊達から奪い取ったばかりの小斎城に加番(援軍)のために、金沢美濃(為信の義弟・備中とも)が宿敵である桑折左馬之介らを伴って訪れた時、為信は不意をつき、左馬之介と美濃を従者とともに謀殺したのである。(相馬側の数十名が謀殺か)

     ※小斎城本丸跡には明治時代に立てられた石柱がある。

主君に大逆を働いた為信は思惑通りに嫡子・右衛門勝信を人質に差し出し伊達に走った。しかしながら、為信も人の子であり懺悔の念があった。積年の仇とは言え、罪もない義弟を謀殺したのには、罪を感じたのだろう。城の麓の南には美濃の弔いのために作られた金澤大明神が祀られている。
 
      ※金澤大明神

この寝返りによって小斎という要衝の城が伊達のものとなり、その後の両軍の戦局に大きな影響を及ぼすに至った。為信はその後の戦で、勲功を上げ、一千石を賜り、伊達の一族(伊達家臣の中では四番目の家格)に列せられた。

この話には続きがある。それは為信が伊達に寝返った10年後の1591年(天正19年)佐沼の合戦で為信は甲の八幡座(髷を通す穴)から敵の弾丸で撃ち抜かれ討ち死にを遂げたのである。その時に彼が身につけていた甲冑とすね当てが、小斎城の北側にある鹿島神社に保管されている。
 
 丸森町有形文化財佐藤家初代宮内少輔為信着用鎧甲及びすね当て




佐沼での彼の討ち死にをどう捉えるか、名誉の討ち死にとも取れるが、一方で仇を討ったものは仇で返されるとも取れなくもない。戦国の世に生きた武将とは言え、あまりにも波乱に満ち溢れた彼の生涯であった。

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