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烈士伊東七十郎の最後を看取ったエドヒガン
去る12月19日(土)のことだった。私は息子とともにできたばかりの仙台市地下鉄東西線に乗って八木山動物公園に行った帰りに市営バスに乗り、愛宕大橋というバス停で降りた。神社へ向かう急な階段を駆け上がるとご覧のようなロケーションが目の前に開けた。ふとそのとき、私はこの見事な枝振りの老木が気になった。

このエドヒガンの樹齢は平成18年(2006年)当時で約350年、するとこのエドヒガンは1656年頃、この場所に芽を出したことになる。私は或ることにピンと来た。それはこの老木が或る仙台藩士の最後の一部始終を見ていた可能性があるからである。

彼の名は伊東七十郎重孝である。七十郎は伊達騒動(寛文事件)に関わり、仙台藩乗っ取りを企んだ伊達兵部(伊達政宗の十男)の暗殺を謀りながらも、密告によって未遂に終わり処刑された人物である。明治35年(1902)愛宕山東登り口の改修工事中に伊東七十郎重孝と思われる 遺骨が発見された。遺骨は一族の菩提寺である栽松院(連坊一丁日)に葬られたが、 発見された場所に明治40年(1907)の240回忌に招魂碑(中央)が建てられた。

1970年NHK大河ドラマ「樅ノ木は残った」での伊東七十郎は俳優伊吹吾郎氏が熱演したものでまさにはまり役であった。人を見据えるような眼差しからは豪快で酒を好み、女にもてたとされる彼の気骨が表れている。
   伊東七十郎(1633~1668)

祖父である伊東重信は、戦国時代に伊達政宗に仕え、天正16年の郡山合戦において政宗の身代わりとなって戦死している武功ある家柄であるが、重孝本人は仙台藩平士であった。京都や江戸で国学や兵学を学び、勉学にも通じるとともに体力に優れ、武芸にも秀で、生活態度は身辺を飾らず、その内面に烈々たる気節を秘めた直情実践の士であったとされる。

伊達氏仙台藩の寛文事件において、伊達家の安泰のために対立する一関藩主である伊達兵部を討つことを甥である伊東采女重門と共謀したが、事前に計画が漏洩し、伊達兵部側に捕縛され寛文8年(1668年)4月28日、誓願寺河原にて斬首される。彼は事件後は罪人として扱われ一家は流刑、禁固となったが、後に4代藩主、伊達綱村から忠節を理由に伊東家再興を認められた。

彼は処刑される四日前に『人心惟危 道心惟微 惟精惟一 允執厥中』云々という言葉を直筆の書に残している。その意味は『人の心は肉体があるから、物欲に迷って邪道に陥る危険があり、本来人に備わってる道義の心は物欲に覆われ微かになっている。それゆえ人心と道心の違いをわきまえ、煩悩にとらわれることなく道義の心を貫き、天から授かった中庸の道を守っていかねばならない。』というものである。
※諸橋轍次編集「中国古典名言事典」より

これは絶筆となった彼の書である。「誠」や「執」の字の跳ね具合に着目して頂きたい。どう見ても絶食20日を経て、死の四日前に書かれたものには思えない。

烈士らしい信念に満ちた力強い筆跡である。またこの言葉の出典は中国の書経であり、彼の教養の深さが十分に伝わるものである。彼は烈士でありながら文武両道に秀でた武士であった。

「鷺坂、おぬし謀ったな!」伊東家の家臣である鷺坂の裏切りで捕まった七十郎。鷺坂を睨みつける烈士伊東七十郎。無双とも言える剛力だっただけに5人がかりの捕物となった。(70年放映NHK大河ドラマ「樅ノ木は残った」総集編より)

寛文8年(1668年)4月28日、彼は誓願寺河原(現仙台市青葉区米ヶ袋の広瀬川河畔)で斬首されたが、首を斬られても前のめりに倒れることなく、彼の予告どおりに仰向けに倒れたという。

彼が処刑されたのは広瀬川向こう岸のほぼ中央の辺りである。このときこのエドヒガンはまだ幼木であったと思われる。

航空写真で位置関係を確認して頂きたい。
赤:愛宕神社
黄色:伊東七十郎が処刑された誓願寺河原
黄緑:JR仙台駅

この石碑が伊東七十郎重孝のものである。壮絶極まる最後を遂げ、己の命と引き換えに仙台藩を救った一人の侍。彼こそは武士の中の武士であり、男の中の男であり烈士と呼ぶに相応しい人物である。
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