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 新地町の福田古館を訪ねて
ちょうど一週間前の先週土曜日(11月28日)のことだった。福島県新地町の右近清水を訪ねた後、私は自転車であてもなく県境方向に向かった。その時目に入ったのがこの諏訪神社である。今までの経験上、古くからの集落と付近に神社や寺があると古館などの史跡のようなものがあるようなことが多い。

名前は古館公園となっていたが、ここには南北朝時代に作られた館があったようだ。アングル的には北西側の駐車場から館の曲輪を見上げたものである。

拡大航空写真で位置を確認して頂きたい。
赤:福田古館
黄色:諏訪神社
福田小学校から福田古館までの距離は直線で500メートルほど(小学校から見てほぼ真北)である。

福田古館の鳥瞰図を御覧頂きたい。1は本丸と見られるが、複数の館があったと見るのが妥当?という気がする。(Pは駐車城である。)

※nifty余湖様のブログから転載可能を確認のうえ掲載(余湖様にはこの場を借りて御礼申し上げる次第である。)

白河の結城宗広は、南朝方として活躍したので、その恩賞として建武2年(1335)、後醍醐天皇から宇多庄(現在の相馬・新地地域)が与えられた。この時、宗広は一族の正光に黒木城を築かせて領地支配に乗り出した。築城年代 は、建武から興国(1334~1345)年間とも云われているが定かではない。正光は後に黒木大膳を名乗るように成る。その際、福田にも一族が配置され、福田館を築いたという。

安永8年の御用書上風土記に「諏訪古館、高十六丈五尺、東西五拾六間、南北三拾弐間」 と記されている。本丸跡とされている所を中心に四囲に段丘があり、西側と東方の水田が一段低く帯状になっ ていて、常に湿地の状態になっていたので、外濠の可能性があるまた、北方に黒木氏の氏神といわれる諏訪神社があり、南西に八幡神社、南東に薬師堂が 建っていて、舘との関係があったと伝えられている。


  ライムグリーン:福田古館
ここで気をつけなければならないのは、館によっては存在した年代が違うということである。新地城(紫)と福田館(ライムグリーン)は目と鼻の先であるが、新地城は1566年に相馬盛胤によって築城されたゆえ、南北朝時代にはなかったことになる。

教育委員会の看板を見ると相馬市大野の黒木城(今年の5月31日訪問済み)を根拠の城としたとなっているので、この館は黒木城の支城と見られる。尚、航空写真で黒木城と福田古舘の離れを測ると直線距離で約8キロであった。何れにしても、結城氏の流れをくむ黒木氏がこの地方の支配に大きく関わっていたのは間違いないようである。

ここが本丸跡(現古館公園)である。周囲との比高は約6メートルほどで、さほど広い面積ではない。

本丸から見た北北西のアングルである。写真中央やや右に諏訪神社の鳥居が見える。福田の集落が見渡せるものとなっているが、ここに館を構えた理由である「農業が盛んな土地」がわかるようなシチュエーションである。

ほぼ真西のアングルである。右側の山は地蔵森、中央の山は五社檀と見られる。こちらの方角にも豊かな田園地帯が広がっている。

南北朝時代、この新地のあたりはまだまだ相馬氏の支配が及んでいなかった。相馬氏が土豪を制圧しその領地としたのは1520年代と見られる。相馬氏の支配を経た1589年、藩主相馬義胤不在の一瞬の隙をついた伊達政宗はこの地を一気に攻略(新地城、駒ヶ嶺城を落城させる)し、手中に収めたいきさつがある。

相馬の中村城、黒木城を含め、南北朝時代から戦国時代にかけての宇多庄
(現相馬市~新地町)の動向は非常に複雑(一つの城や館を巡る相馬と在来土豪との争い、更には伊達と相馬の相克に伴い、双方に寝返りが頻発している)ゆえ、私は今後の研究課題にしたいと思っている。
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