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中央大学制作ビデオ 知の回廊「志賀直哉」
阿川弘之によると、師匠である志賀直哉が広島の尾道に移り住んだのは1912年(大正元年)11月17日(日曜日)で、今日でちょうど103年目になる。

103周年を祝し、今日は彼の作家活動の原点とも言える尾道移住が彼にどんな影響をもたらしたかについて取り上げてみたい。リンク動画では1分30秒~11分55秒までが尾道関係のものである。

処女作『留女』を出版することが決まった直哉は、小説家になるのを強く反対する父直温と対立しながら、創作出版費として1000円(今の金で300万円)をもらい、東京麻生の家を出る。その目的は家族と知人の訪問も及ばない土地に住むことで大きな仕事(彼の唯一の長編小説『暗夜行路』はその後実に27年を経て完成に至っている。)を成し遂げたいとする気持ちであった。彼が尾道に移り住んだのが満29歳で『暗夜行路』の完成は実に27年後の56歳の時である。

生涯23回にも渡る転居を繰り返した直哉にとって尾道での七ヶ月は非常に大きな意味を持つものであった。長与善郎(1888~1961:作家、劇作家、代表作に『項羽と劉邦』『青銅の基督』『竹沢先生と云ふ人』など)によると直哉の尾道在住はけして順調満帆なものでなく、一向に仕事がはかどらず、焦燥に満ちたものであり、或る意味で作家人生に於ける危機と言えるものであったという。

この長屋(一番右端)が直哉が借家した長屋である。直哉は寒がりで、冬場に於いて昼夜ガスストーブを使い続け、この年(大正元年)の尾道では或る料亭に次いで二番目に使ったのが直哉だったという。

直哉の部屋は6畳一間、3畳二間で便所は共同であった。執筆に疲れた直哉にとって、大小様々な船が往来する瀬戸内海・尾道港のロケーションは活気に満ち溢れており、目を奪われながら癒されたに違いない。

直哉はここで代表作の一つである『清兵衛と瓢箪』を執筆している。直哉の父は滝沢馬琴を愛読していたが、この作品の中では、主人公の清兵衛が馬琴の瓢箪を揶揄するフレーズが見られる。これは明らかに直哉が父に読ませたい意図があったと阿川弘之(直哉の愛弟子)も語っている点が興味深い。

尾道と言えば坂の町である。直哉もこうした路地を散策し、気分転換に及んだことだろう。隣の親切なおばさんのお陰で直哉はよく炊事洗濯をしてもらったというが、夕食は洋食店に訪れ外食することも多かったという。

 読後感想
『暗夜行路』の中で主人公は「瀬戸内の未だ名も知らぬ大小の島々、そういう広い景色が、彼には如何にも物珍しく愉快だった。」と語っている。この動画を見るとまさに彼の踊るような胸中が溢れ出た言葉である。

阿川弘之『志賀直哉・上』によると当時の尾道の人口は約三万、現在の五分の一ほどであるが、古くから開けた港町として、風情に満ちたものであり、直哉にとってはまさに新境地だった。彼の六十代のエッセイ『稲村雑談』(いなむらぞうだん)の中に綴られている言葉で印象に残ったものがある。それは「付近の麦畑を見て、すくすくと伸びる麦を羨ましく思った。」というものである。これは執筆が滞ることに悩む彼の心境を如実に綴ったものと受け止めている。

長与善郎の言った執筆存続の危機は、むしろ尾道に限らず、直哉にとって日常的なものであったと思われる。直哉は晩年近くになって「才能を与えてくれればたとえ悪魔に身を売ってもいい。」と語っているが、往時の直哉にとっては、伸び行く麦の如く筆が進むのは願ってもないことであり、藁にもすがりたい心境であったことだろう。

そんなシチュエーションに於いて、尾道という港町としての土地柄が直哉に癒しをもたらし、名作『清兵衛と瓢箪』を生み出したのではないだろうか?二十台最後となった彼はまだまだ発展途上であったが、『暗夜行路』の前身である『時任謙作』を執筆するなど、此の地で着実な成果を挙げたことを高く評価したい。
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