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 随筆「相馬藩士志賀三左衛門直道と志賀直哉」
志賀直哉は私と同郷であり、ずっと後年になって知ったことであるが、小学生の低学年の時分は彼の生家の前を通って毎日通学していたこともあり、何か特別なものを感じている。中学校の教科書に載っていた短編「城の崎にて」をきっかけに「小僧の神様」を読み、徐々に彼のファンになっていった。その後ブランクがあり、50歳をきっかけに彼の様々な作品を読みあさった。倫理観と強靭な自我がもたらす文体は飾り気がなく、独自の世界観を構築している。それはまるで水墨画を見るようで、彼の人柄には尊敬を通り越し、畏敬さえも感じている。

直哉への畏敬が高じて、彼の生誕130周年を祝し石巻の彼の生家跡地に行ったり、愛弟子である阿川弘之氏の『志賀直哉』も読んだ。この本の上巻に「祖父素描」というのがある。直哉が父直温と不仲であったのは『和解』や『大津順吉』、『山形』などに出てくるが祖父の直道に関しては、彼の生涯に影響を与えた三人の人物(残りの二人は内村鑑三と武者小路実篤)の中に数えられるもので、極めて興味深いものがある。阿川氏は先日亡くなったばかりであるが、師匠である直哉を描くに最も相応しい人物であることはごく自然であり、本著の内容を推し量れば、志賀直哉研究の第一人者であるのは、誰の目にも疑いのないことである。

今回私が志賀直哉と祖父の関係の執筆に至った動機は三つある。一つ目は私自身が尊敬する阿川氏への追悼を兼ねること。二つ目は私自身が父方の祖父から多大な影響を受けたこと。三つ目がこの四月から勤務地が相馬に転勤になったことである。三つ目の動機をまったくの偶然と捉えるのか、因果と捉えるのか自分でもその境界はわからないが、この転勤がきっかけとなり直哉の祖父・志賀三左衛門直道の居住した屋敷跡地に訪れる機会に恵まれたことには、願ってもないことであった。前置きはこれくらいにして、そのあたりから話を進めていきたい。

南相馬市在住の國枝良次氏の著物である『志賀三左衛門直道の年譜』を手がかりに西山堀岸(現相馬市中村大手洗)を訪れたのは今年の10月26日のことである。郷土史家の森鎮雄氏著『相馬六万石城下町漫歩』によると西山堀岸は西山片町とも言われた。道の東西の長さは約350メートルで北側は中村城南二の丸の壕があり、南の宅地の高木が日差しを妨げ、冬の寒さが厳しく往来する歩行者の顔が泣いているようだったので、俗名は「泣面小路」とも呼ばれたということである。

※かつて泣面小路と呼ばれた路地、志賀三左衛門直道の屋敷跡はここから約100メートルほど先の左手である。

かつての志賀屋敷は今は相馬高等学校の敷地となっていて、残念ながら侍屋敷跡としてはこれを偲ぶ縁すらない趣となっている。

長男の出奔により、次男ながら弱冠11歳で家督を継いだ直道は1854年、志願して二宮尊徳に師事し、一時期この屋敷を離れたこともあったが、直哉の著書『祖父』によると、相馬家令として直道が藩からもらっていた当時の月給は25円で、息子の春次郎が幼かったころの暮らしはけして楽でなかったという。家計を少しでも助けるために、直哉の祖母である留女は泣面小路の屋敷で素人下宿のようなことをしたり、自家製の濁酒を作って近所の人に売るようなこともしていた。『祖父』の中で直哉は寒い時に酒をしぼるのがひびにしみてつらかったと、後年になって祖母から聞いたことがあったという。

『祖父』では相馬家の財政立て直しに成功した直道が相馬家の親族関係である大名華族の財政危機に瀕した際の立て直しも頼まれたことについて触れている。このあたりは師と仰いだ二宮尊徳の歩んだ足跡とも似ている。直哉は禅の教えを比喩に用いて、直道の相馬家華族の立て直し手法を「官には針を入れず、私に車馬を通ず」(表向きは針も通さないほどの穴と思っていたら、実は車でも馬でも通ってしまうほどの大きな穴であった…転じて、潰れかけた家を再興するには、経費などを厳重に取締り、返済などの決められたことを固く守らせるようにしながらも、裏口からは救いの手を差し伸べてやるような寛大な手法)としている。

ちなみに直哉の父である直温(なおはる)が、これと同じようなケース(破産した親戚の家の再興)を三件受け持ち、厳格過ぎる性格が災いして、すべて失敗に終わったという。このあたりに青年期に足尾銅山鉱毒事件(直温は足尾銅山の経営者の権利を直道から受け継いでいた)をきっかけに、父との軋轢を演じ続けた直哉と父とのぎくしゃくした関係を彷彿できる気がする。すべてにおおらかであった祖父と、何事にも口をはさみ、小言を言う父との違いが読み取れる逸話である。

戊辰戦争のとき、直道は42歳、直温は15歳で、二人はそれぞれ相馬藩の兵糧方、総領組として出兵している。二人とも最前線には出されなかったが、『志賀三左衛門直道の年譜』によると、直道は宮城県の丸森方面で戦闘に参加したとされる。また直温は柿の木に登って実を採っているとき、敵兵に見つかり銃口を向けられたが、撃たれずに済み九死に一生を得たということであった。

相馬は小藩なので大藩である会津や仙台に挟まれ、一時的にせよ奥羽越列藩同盟に入らざるを得なかったが、慈隆(1815~1872、日光浄土院の住持。安政三年中村藩藩主相馬充胤の藩政顧問となり教育や民生の改革を進める。戊辰戦争では藩論を勤王にまとめ、中村藩の危機を救う。維新後は士族授産に努めた。)らの尽力で官軍側に巧妙に立ち回り、城下が火の海になるのを免れたいきさつがある。

直哉の祖母・留女はまだ15歳の息子を送り出すに当たって、息子が戦死することの心配よりも、卑怯な振る舞いなどをけしてしないように願っていたという。直哉は『祖父』の中で、これは非戦論者であった自分にとって、よく理解できたことであったと語っている。

最後に、直哉が10歳の時に相馬事件に巻き込まれた直道が、75日に渡って拘引留置されたことについて触れたい。志賀家に及ぼした影響について、阿川氏は志賀家の新聞社不信感(居るはずのない直哉の姉が不義の行いをしたという虚偽なる某新聞の掲載)を招いたとしている。事件は直道を始めとした相馬藩主側の者が主犯者の錦織剛清の企みに翻弄されたものであるが、無事に無実が確定し濡れ衣が晴れた後に及んでも、直道は家族に対して事件のことを話そうとしなかったということである。

※晩年の志賀三左衛門直道

罪を恨んで人を恨まずとまでは行かないのかは知れないが、このあたりは直哉が思慕した祖父の一面、即ち鷹揚磊落たる性分が見いだせるものと受け止めている。何を隠そう私の祖父も何事も無口で鷹揚な人物であった。小学校五年生の時に七十五歳で死んだ祖父はその一年前に、牡鹿半島に浮かぶ金華山という島で、七十四歳とは思えない泳ぎを披露したことがあったからである。口で言うよりも己の背中を見て学べという姿勢は半世紀近く過ぎた今でも少しも色褪せず、思慕を寄せているのである。
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