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【横町近況】
本日は文芸誌みちのく春秋への寄稿を無事に終え、晴れ晴れとした気分である。一年に渡った連載を完結できたことには達成感も感じている。そんな安堵感もあり、本日は近所の新聞販売店を訪ねて「石巻かほく」(河北新報の地方版)を入手した。「よみがえる1951・米国軍医が撮った石巻地方」と題して日曜日ごとに掲載される記事(解説は石巻千石船の会会長・辺見清二氏)が欲しかったのである。本日はそのコーナーに掲載された住吉神社鐘楼にまつわる話を取り上げたい。

これはアメリカの軍医であったジョージ・バトラー氏が昭和26年(1951年)に撮影した住吉神社(大島神社)の鐘楼である。(石巻かほく2018年11月4日発刊より引用)鐘楼の柱の脇に立っている人物はバトラー氏の友人の歯科医である。バトラー氏は医師でありながら、こうした日本文化に興味を抱いた人物であったらしく、数百枚にも及ぶ写真には彼の日本贔屓の心とエスプリを強く感じる気がする。友人の歯科医とは戦後間もない石巻について、いろいろと語り合ったのではないだろうか?

本日はこの住吉公園の鐘楼にまつわる思い出を自叙伝風に綴ってみた。本作品のベースになったのは2011年12月23日に更新したサンタルチアのチャイムと共にである。現在のブロ友様各位で既にこの記事をご覧頂いたかたはJ様一名のみであるのを最初にお断りしておく。画像の背後に見える川は旧北上川である。

あれは0年以上話である。小学校一年で人見知りが激しく引っこみ思案だった私が二年生になった、ようやく一人の親しい友達ができた。彼の名は板橋、ある秋の土曜日の放課後だった。私は板橋をいつものようにジャングルジムの上段に上がってむきになって追いかけていた。

それはけしていじめではないが決まって私は鬼役だった。それは地上約1・8メートルほどのジャングルジム周回を駆ける速度が彼よりも遅いことから来る必然的な理由だった。もしジャングルジムの上でつまづいて転んだら大けがをする恐れがあるだろう。ズック靴を履いてジャングルの鉄の棒に足を掛け、上方のジャングルに掴まりながら、相当なスピードで蟹のように横走りするこの遊びはスリル満点だった。

運動神経の差だろうか?私が左回りしても、右回りしても、或いは鉄棒から足を踏み外すほどリスクを冒しても板橋に追いつくことはけしてできなかった。負けず嫌いの私はそれが悔しくて悔しくて仕方がなかった。そして週末のこの日もいつものように私は彼をついに捕まえることはできなかった。校舎につけられた大時計が午後一時を回ると、その日の放課後を告げる「サンタルチア」のチャイムが校庭に響き渡った。
Enrico Caruso Santa Lucia
今でさえ「半ドン」という言葉はなじみがなくなってしまったが、あのころは土曜日と言えば会社も学校も半ドン(学業や勤務が午前中で終わること)が多かった。私にとって土曜日の放課後に聴くサンタルチアのチャイムは「ああ、今週もやっと一週間が終わったんだ。明日は休みなんだな。」という安息の気持ちをもたらすものだった。今聴けば哀愁を感じるメロディだが、当時の土曜日の午後このチャイムを聴くと子供心にも私の胸は高鳴ったものである。 ちなみに住吉小学校は父や叔父、叔母も巣立った学校である。(画像はバトラー氏撮影の住吉小学校旧校舎・昭和26年撮影)

「君たち、帰るんだろ?」私と板橋はこの日の宿直らしき若い男の先生に催促されて校門を出た。それは阿吽の呼吸だった。「板橋、きょうもやろうぜ!」「ああ。」私と板橋はいつものように校門から50メートルほど離れた旧北上川の河畔道路に向った。私と板橋は拾った木の切れっぱしをそれぞれ川に浮かべると拾った石ころを投げて自分の舟(細長い木っ端)を進めようとひっちゃきになった。

後にこの遊びは付近の住民の「川に石を投じている子供がいる」との通報により禁じられた遊びになった。このゲーム、ルールはなんでもありだった。相手の船にぶつけて進行速度を遅らせるのもありだった。この「小舟レース」なる遊びはジャングルジムでの鬼ごっこと違って私にも勝機が十分にあった。勝ったり負けたりといった感じだったろうか?私には非常に熱くなった小舟レースだったが、このスリル満点な遊びはいつもきまったように住吉神社の鐘楼の前で打ち切られた。

※船レースのゴールとなった住吉神社の鐘楼(2011年9月撮影)

だが今思うにこの川沿いを下るコースは彼の帰り道のルートから大きく外れており、かなりの遠回りだった。それでも彼は私にいつも付き合ってくれた。そして大人だった彼は負けず嫌いの私に、時として花を持たせてくれた…、これは今になって思うことで当時の私にはそれを推し量るだけの度量さえなかったのである。板橋こそが生涯初めてのライバルであり、かつ良き友でもあった。その後互いの家を訪問しあったりして友情を深めた。

そしてそんな中、3年生の3学期、突然私の転校が決まった。それは私にとって非常に辛い別れでもあった。私は4年生の進級を期に仙台の小学校に転校して、彼とはそれ以来五十数年会っていない。それは長い人生でたった2年間の付き合いだったが、今思えば彼は人生の中で私に「人付き合いとは一体なんなのか?」を教えてくれた最初の人物だったに他ならない…

横町挨拶
今思い起こせば、自分と比べて板橋君は大人でした。勝負事に負けるのは誰しも辛いわけですが、彼は少年ながらその痛みがわかる人物でした。よしんば、世に自分の逢いたい人物との面会をかなえてくれるものがあるなら、迷うことなく彼に逢いたいと思います。念願かなって彼との面会がかなった際、私が開口一番彼に告げる言葉はこうでしょう。「あの頃は幼くて君の厚意がわからなかった。Hard to Say I'm Sorry(素直になれなくてご免)」

本日も最後までご覧頂きありがとうございました。

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[タグ] 住吉鐘楼

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