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相馬15代当主盛胤公墓所を訪ねて
今年の4月から相馬転勤となり。それまでの休日の史跡巡りの傾向が大幅に変わった。それは宮城県南部の丸森町、山元町、福島県浜通北部の新地町、相馬市の古城跡や合戦場への訪問である。

歴史考察は私見にこだわらず、様々な角度で史実を見定めようとする姿勢が大切である。私はそれを視野に入れ、複数の文献を読みあさり、伊達側、相馬側のどちらにも偏らないように、なるべく交互に双方の立場に立っていろいろと調べてきた。

また昨今は相馬郷土研究会にも出席し、相馬の史家とも接点を見出そうと努めている。相馬はけして私の郷土ではないが、これらによって一気に相馬への興味が放物線的に高揚するのを実感している。

そのような折、私は一週間ほど前に相馬図書館を訪ね、一冊の相馬の郷土史に関する本を借りた。松本敬信著「相馬の歴史」である。

この本の中で特筆に価するのは相馬家第15代当主である相馬盛胤の肖像画である。
残念ながら、どなたが描いたのかはわからず仕舞であった(著の中に挿絵の作者の紹介はない)が、例え想像にせよ、盛胤公のイメージを誘う貴重な肖像と受け止めている。
   相馬盛胤(1529~1601)

天文の乱で稙宗派として戦った父・相馬顕胤の跡を継ぎ、領土の争奪を巡り伊達氏と激しく争う。晴宗派の伊達氏との確執が続く中、妹の嫁ぎ先である近隣の田村氏とは和睦して所領の基盤を固める。

相馬と伊達の縁戚関係を御覧頂きたい。三春藩主の田村清顕を介し、或いは相馬顕胤と伊達稙宗の娘との縁組など、伊達と相馬は深い縁戚関係が築き上げられていた。それにも関わらず、天文の乱によって両家は不仲となったいきさつがある。

去る10月4日、私が目指した寺は相馬市中村字川原町184番地の円応寺である。相馬盛胤公の墓は中央の杉の木の根元にある。

航空写真で円応寺の位置を確認して頂きたい。円応寺は中村城から南東に300メートル行ったところ(宇多川から北に数十メートルのところ)にある。

円応寺の山門は比較的新しい年代に作られたようである。

何度も火災に遭遇したせいで本堂も新しい。以下三井寺HPより引用
※相馬市円応寺(住所:相馬市字川原町184番地)
『相馬市史』によれば円応寺については豊池山円応寺と称し、「旧小高郷小谷邑にあり、 のち中村河原町真光寺に移る。羽州米沢瑞龍院の末寺。禅三個寺の其一。 護寺神は白山権現、鶏足明神。勧請開山端龍院三世月窓正印大和尚。 豊池山鴛鴦(えんおう)寺と号したが、しばしば火災に遭い、名を円応寺と改めた」という。

 更に「西林山真光寺」については、円応寺の末寺、古来中村河原町にあり。 近属龍朔寺に移り、寺宇は円応寺と為る。開山円応四世一翁全益和尚。原寺は西山岩門の西にあり。 天授院(相馬盛胤公)殿追薦冥福のために寺を天授公の墓側に移す。天保十一年円応寺を当寺に移す。…」とある。

これが相馬盛胤公の墓である。私は一瞬自分の目を疑った。殿様にしてはあまりにも質素な墓という気がするからである。

昭和44年に立てられた墓標は木柱である。

疑問1、何故、六万石の大名の殿様の墓がこのような質素なものになったか?
疑問2、盛胤公嫡子の相馬義胤公以降の歴代相馬藩主が南相馬の同慶寺に葬られているのに、何故盛胤公のみが中村城近傍のこの地に葬られたのか?

これらについては今後の研究課題としたい。
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