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相馬郷土研究会「南北朝時代における楢葉氏の興亡」
昨日の午後、私はかねてから意中にしていた或る研究会の門を叩いた。向かった場所は相馬市である。場所は相馬市駅前に近い相馬市生涯学習会館である。ことわざに「棺を蓋いて事定まる」というものが在るように人は生涯に渡って向学心を持ち続けなばならない。会館の名である「生涯学習」とはつくづくその意図に相応しいイメージと感じた。



 師匠とは年齢を問わないものである
自分の先祖への敬いが先祖調べに繋がり、先祖調べが郷土史への探求に繋がり、郷土史の探求がやがてその範囲を広げ、やがて日本史や世界史にも興味が及んでゆく。それらの探求心は文献や現地探訪のみに留まらず、歴史講座への出席意欲にも繋がる。そうした講座で多くの先賢と出会い、研究成果という名のたすきを受け取る。これは今の私が実際に経験していることである。

昨今は更にこれに付け加えて使命感も感じてきている。それは先賢の多くがお年を召され、老境の域に達して居られるからである。還暦を目前にして私はこれらの先賢から貴重なたすきを引き継ぎ、いつの日にかそれを次世代に渡したいとも思っている。但し、ここで言う先賢は必ずしも己の年上とは限らない。お若いかたの中には研究を重ねて私よりもはるかに深い見識を持っているかたも居られるのである。

今年の二月、ブログのオフ会でお会いした葛西家家臣の流れをくむS氏もその一人である。師弟関係は年齢を超えても存在しなければならない。それには下手なプライドなど、かなぐりと捨て、師匠となる人物には外寛内明な姿勢で謙虚に教えを被らなければならない。これは昨今の私の新たなる信念である。

そして、昨日はもう一人若い御仁が私の師匠となった。若き講師の名は泉田邦彦氏である。彼は現在東北大学の大学院で日本中世史を研究されている。初めに歴史経済学者の岩本由輝氏より、泉田氏の紹介があった。
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ここで岩本氏の紹介をしたい。
岩本由輝氏(1937年生まれ)
日本の歴史経済学者、東北学院大学名誉教授。東京東中野に生れる。1961年東北大学経済学部卒業。1967年同大学院経済学研究科博士課程修了、「近世漁村の共同体の変遷商品経済の進展と村落共同体」で経済学博士。同年山形大学講師、助教授、教授、1988年東北学院大学教授。2011年退任、名誉教授。著書に『歴史としての相馬花は相馬に実は伊達に』 、『カール・マルクス著笹原潮風訳『賃金労働及び資本』について』、柳田国男民俗学に関するものなど多数。
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岩本氏は「自分と五十以上も年が離れた新進研究者の泉田氏には大いなる期待を馳せ、氏を頼もしく思うと同時に心からエールを贈りたい。」とのメッセージがあった。

※楢葉氏の家臣、その後相馬氏に仕えた泉田氏の末裔である泉田邦彦氏を絶賛する岩本氏(左)



泉田氏は1989年の平成元年生まれで茨城大学出身で現在は東北大学の文学研究科で日本中世史を研究されておられる。20代半ばであるが、いよいよ各界に平成生まれが活躍する時代になってきた。

私は講座が始まる前に彼と名刺交換に及んだ。



相馬郷土研究会は毎月、月末の土曜日に開催される。受講者の大半はグランドシニアで、60代~80代がほとんど、たまに50代といった感じである。



きょうのテーマである楢葉氏の略系図をご覧頂きたい。楢葉氏は祖を平高望(たいらのたかもち)とする平家筋の家系である。ということは相馬氏と祖を同じにすることになる。



さて、読者諸兄し於いては中世戦国大名である楢葉氏に関しては聞きなれないかたも多いことと察し、信用できる二つのウェブサイトから引用し、その概要を紹介したい。
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A、標葉氏(以下、インターネット武家家伝より引用)
常陸大掾(だいじょう)氏の一族。今の福島県双葉郡は、かつて標葉・楢葉の二郡に分かれ、このうち楢葉郡は、鎌倉時代なかばごろまでは、まだ岩城氏の支配下にあったとみられるのに反して、標葉郡は鎌倉時代初頭からほぼ独立姓を保持していたと思われる。そして、その領主が標葉氏であった。中略】

新政および南北朝の内乱のころ、文書などにみえる標葉一族の氏名などから推定すれば、このころには、下浦・泉田・室原・請戸・羽鳥などに一族が分立する状態になっていたようである。そして、建武三年(1336)三月の相馬光胤着到状に名を連ねて北朝方への参加を明示している標葉教隆を別にすれば、標葉一族はこののち十年、南朝方の敗北が決定的となるころまで、雄族相馬・岩城の両氏の間にはさまれながら、ひとり南朝方として奮闘するのである。【中略】

そして、戦国時代を迎えると、標葉氏は岩城氏・相馬氏ら奥州海道筋の豪族たちと抗争、同盟を繰り返しながら「標葉六騎七人衆」とよばれる一族を率いて大勢力を保っていたが、明応元(1492)年12月、標葉隆成は相馬盛胤によって滅ぼされた。一族は、泉田氏・熊川氏・藤橋氏を称して、相馬氏の一門となった。
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B、標葉氏(以下相馬市オフィシャルウェブサイトから引用)
岩城氏・相馬氏と同じ桓武平氏で、中世初期から岩城氏と相馬氏に挟まれながら現在の双葉郡大熊町・双葉町・浪江町・葛尾村を支配していた。奇しくも現在原発事故によって居住の目途すら立たず、避難を余儀なくされている地域である。相馬氏とは長年抗争を繰り返したが、明応元年(1492)標葉清隆・隆成父子の時一族家臣の寝返りもあって相馬盛胤に滅ぼされた。

以後、標葉郡は相馬領となった。戦国大名相馬氏が武力によって勝ち取ったのはこの標葉郡だけである。標葉氏の一族家臣には六旗(井戸川・山田・下浦・熊・上野・小丸)、七人衆(室原・郡山・樋渡(ひわたし)・苅宿・熊川・上浦・牛渡(うしわた))や泉田・小野田・齋藤などの諸氏が居り、その多くは、後相馬に属することになった。中でも泉田氏は泉田舘主として泉田を姓とした標葉の一族であったが、当主隆直が叛きその策略によって勝利を得たことを賞し、相馬盛胤は泉田氏を相馬一族に準じ「胤」の一字と繋馬の紋を賜り標葉郡の旗頭と為し、子々孫々相馬一家に列した。
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泉田邦彦氏はその祖を近世に於いては相馬家臣、中世に於いては標葉家臣とする家系ということであった。彼は自宅が震災で避難指定地域に指定された際、彼の家にあった古文書(津波流出を免れたとの由)を研究材料として大学に持ち込んだと言うことであった。

※矢印の地域が豪族時代の泉田氏が居城を構えた地域である。



google航空写真で東京電力福島第一原発と泉田氏の居城跡を位置を確認して頂きたい。
赤四角:泉田氏居城跡
赤×:東京電力福島第一原発
黄色○:浪江町請戸漁港



「南北朝期における標葉一族の興亡とその系譜」と題する研究内容は非常に詳細に渡り、大変価値の高いものであるが、この場での掲載はブログスペース上の制約などにより敢えて割愛する。講座の要点は「今までの定説で楢葉氏は南北朝時代に南朝が主とされてきたが、新たな文書解明によって北朝にも仕えたことが明らかになってきた。」ということであった。

彼とは名刺を交換し、教えを被る者として真摯な態度で挨拶に及んだ。講座の最後に、他の先賢史家とも挨拶し懇談した。また、人脈構築に留まらず、自分の書いた歴史エッセイ「伊達と相馬の相克シリーズ」も見て頂き、大変有意義な一日であった。
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