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1576年夏、矢野目館に於ける相馬の大勝
去る9月20日、私は伊達と相馬が戦国時代に激しく争ったとされる宮城県伊具郡丸森町を訪ねた。この日の目的は攻防の大きな拠点となった柴小屋館(小斎城)と矢野目館を訪れることである。小斎城は先日紹介したので今回は田園地帯に浮島の如く存在する矢野目館(矢の目館)の番である。この館は昨年の7月に訪れたばかりであるが、居住者のかたに歴史エッセイ(伊達と相馬の相克シリーズ)を渡したいという希望もあり再度の訪問となった。

※小斎城物見櫓(1576年時は相馬方)から見た矢野目館(写真右側の屋敷林に囲まれた民家の奥側、1576年時は伊達方)

ここで、再び両藩の相克について復習をしておきたい。
※参考資料森鎮雄著「新編 奥相秘鑑」、紫桃正隆著「みやぎの戦国時代 合戦と群雄」、松本敬信「相馬の歴史」、Wikipediaなどを基にミックが編集。
伊達と相馬の相克について
・1542~1548天文の乱(天文11年から同17年間に渡り伊達氏14代当主伊達稙宗と嫡男晴宗父子間で内乱が起き、稙宗(娘を相馬氏14代当主相馬顕胤に嫁がせていた)と懇意にしていた相馬氏との間に軋轢を生じる。
・1553年(天文22)伊達晴宗(伊達氏15代当主・伊達政宗祖父)が懸田城主・懸田俊宗(伊達家臣、陸奥国伊達郡懸田城主、晴宗に従わず、稙宗に加担した。)を滅ぼす。
・1564年(永禄7)相馬盛胤(相馬氏第15代当主)、嫡男義胤とともに現宮城県名取郡座流川で伊達晴宗と戦い、粟野宗国を討つ。
・1565年(永禄8)丸森城(丸山城)に幽閉されていた伊達稙宗が死去する。
・1565~1566年(永禄9)相馬盛胤、伊具郡金津(現宮城県角田市)、小佐井(現宮城県丸森町小斎・当時の城代は八替七郎兵衛)、金山城(丸森町)を攻め落とし一挙に手中に入れる。盛胤は小斎城主として藤橋紀伊を任命する。
・1570年(元亀元年)藤橋紀伊が金山城に転封され、佐藤為信が城代となる。
・1571年(元亀二年)相馬盛胤、亘理家臣・坂元大膳城主、愛宕山城を攻め落とす。
・1572年(元亀三年)坂元三河(坂元大膳嫡男)、現山元町坂元に蓑首城を築城。
・1576年(天正4)宿敵相馬に攻撃態勢を固めていた伊達晴宗、輝宗父子に対して、田村清顕(伊達政宗の舅)が和睦を呼びかけるが和解に至らず。
同年夏、矢野目館に城を構えた伊達輝宗が数百の騎馬勢をもって相馬側に攻撃を仕掛けるが、相馬側が待ち伏せ応戦し、敗走した伊達の騎馬武者の多くが泥濘にはまって身動きできなくなり討ち取られる。(伊達武者七百騎が討ち死に?)
伊達側の圧力を強く感じた藩主の相馬盛胤は即刻小斎城の堀切普請(工事)を行う。佐藤為信、相馬家老になる。
・1578年(天正6)相馬盛胤が隠居し、嫡男義胤が家督を相続。盛胤は中村城(現福島県相馬市)に入城する。
・1579年(天正7)伊達政宗、三春城主田村清顕の娘(愛姫)を娶る。
・1581年(天正9)7月矢野目館の戦い(現丸森町)が起きる。伊達政宗、父輝宗に伴い初陣に及び奮戦する。小斎城は佐藤為信が城代となる。
・1582年(天正10)5月佐藤為信謀反に及び、加番に訪れた相馬方・金沢美濃、桑折左馬介(親の仇)、門馬七兵衛、渡辺縫殿介ら百名近く?を討ち取る。同じ頃、長者の迫、冥護山、石仏などに陣を構えた伊達勢が八幡崎、黒森、小比良内などで合戦が行われる。
・1583年(天正11)早春、佐竹義重、岩城常隆、田村清顕らにより、伊達、相馬の和睦に向けた調停の働きかけが行われる。特に、田村清顕は相馬説得のため、中村城に七十数日もの間、逗留する。
・1584年(天正12)伊達父子(輝宗、政宗)と相馬義胤との間で丸山城、金山城の伊達への引渡しが和議協定として結ばれる。
・1585年(天正13)秋、安達郡宮森(岩城町)の西樵夫山の陣所で伊達政宗と相馬義胤が初対面し、お互い差刀を交換し和議を祝う。
・1586年(天正14)夏、福島の仙道筋から会津攻略を目指していた伊達の二本松城攻めに対し、相馬義胤の口利きにより開城(落城)なる。同年冬、田村清顕が急死する。
・1587年(天正15)清顕の死後、田村家は伊達派と相馬派に分裂する。
・1588年(天正16)伊達と相馬は再び抗戦状態となる。
・1590年(天正18)伊達、相馬とも豊臣秀吉の小田原攻めに参加、両藩ともかろうじて所領を安堵される。

※矢野目館から見た柴小屋館(小斎城)中央の電柱のやや左の辺りが柴小屋館である。

小斎方面から田の中を西に進む道を来て北に折れるあたりから見た矢野目館である。1576年にはここに伊達の当主である伊達輝宗が伊具の領地奪回を目指して陣を張ったことになる。(往時、政宗はまだ9歳ゆえ元服前)

赤:柴小屋館(小斎城)
オレンジ:矢野目館
両館の距離はわずかに600メートルしかない。

歴史は往々にして勝者の手で改ざんして書かれることが多いので多面的に考察しなければならない。
私は偏りを避ける意味で伊達側に基づいた文献と相馬側の視点で書かれた文献の両方に目を通すことにしている。
左が相馬側の文献:「戦国相馬三代記」(著者:森鎮雄)
右が伊達側の文献:「みやぎの戦国時代 合戦と群雄」(著者:紫桃正隆)
である。

これは前回撮り損ねた北東側の塹壕跡である。平城の濠にも関わらず、数百年を経て往時の面影を残しているのは驚くばかりである。

矢野目館は現在二戸の家が住んでいる。四角い形状の敷地の右上にあるのが塹壕跡である。

 余湖様のブログから拝領してきた配置図にも塹壕跡が描かれている。

これは西側の民家である。お住まいのかたは元小学校の校長先生をされたかたである。このかたとは再会を果たし、歴史エッセイを手渡してきた。

左の木柱は教育委員会の立てた史跡「矢の目館」の標識、右側の石碑はオーナー様が自費を投じて立てられた石碑である。

これは東側のほうの民家の入口部分である。

矢野目館から南南西の冥加山、金山城方面を望んだ。紫桃正隆氏の「みやぎの戦国時代 合戦と群雄」によると囮に釣られて出兵した伊達騎馬武者が待ち伏せしていた相馬側の反撃を喰らい、敗走し馬ごと湿地帯にはまった約700騎が身動きできなくなり首を刈られたとされる。

伊達武者の多くを討ち取ったとされるこのとき、相馬藩主相馬盛胤の嫡男である相馬義胤は鉾矢型の陣形で自ら先頭に立って指揮を振るい、伊達側を蹴散らし味方を勝利に導いたとされる。

※鋒矢型の陣形(Wikipediaより引用)
「↑」の形に兵を配する陣形。矢印の後部に大将を配置し、そちらを後ろ側として敵に対する。長所と短所、どちらも魚鱗の陣をより特化した物である。強力な突破力を持つ反面、一度側面に回られ、包囲されると非常にもろい。縦横あらゆる偵察から兵を多く見せることができ、敵より寡兵(少ない兵力)である場合、正面突破に有効である。陣形全体が前方に突出し、主戦場が本陣(司令部)よりつねに前方を駆けてゆくため、柔軟な駆動にはまったく適さない。また、陣の前方が重厚な敵部隊陣形により阻止されれば後方の部隊は遊兵となり、前方部隊の壊滅による兵の逃走が同士討ちなどの混乱をもたらす危険もある。先頭は非常に危険であり勇猛かつ冷静な部隊長が必須であるとされる。  

相馬義胤は名君と言われた藩主で、死後の遺骸は甲冑を纏い、北の伊達領に向かって埋葬されたとされる猛将であった。
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