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  不自然な佐藤為信の討ち死に
昨日の9月20日、私は宮城県南部の丸森町の小斎地区の鹿島神社他を訪ねた。鹿島神社ではタイミングよく神主さんに会い、名刺(伊達と相馬の研究)を渡したところ、初代当主佐藤為信の鎧甲を見せて頂ける運びとなった。

鹿島神社は起源を平安時代に遡る非常に由緒ある神社である。

本ブログでは二度に渡って佐藤為信を紹介しているが、何れも不確かなものである。今回は数冊の文献やインターネットで調べた資料の中で比較的信ぴょう性が高いと思われるものを精査した上で掲載する。

佐藤伊勢為信(佐藤宮内とも、佐藤紀伊とも)(1532~1591とも1542~1591とも)

父の佐藤伊勢好信(1511~1565)は相馬重臣で相馬顕胤・盛胤の二代に仕え、現相馬地方に六邑(村)を賜わったが、同じく相馬家臣である桑折左馬介の讒言に遭い、軍奉行職を解かれたうえ、所領を半分没収される。好信は息子の為信に左馬介の仇討ちを訴え、失意のうちに没する。
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為信は逆境の中で奮闘し、1570年(元亀元)から小斎城代となり、1576年(天正5)には相馬家老に列せられる。同年夏、矢野目館に城を構えた伊達輝宗が数百の騎馬勢をもって相馬側に攻撃を仕掛けるが、相馬側が待ち伏せ応戦し、敗走した伊達の騎馬武者の多くが泥濘にはまって身動きできなくなり討ち取られる。(伊達武者七百騎が討ち死にとも)

それでも伊達側の圧力を強く感じた藩主の相馬盛胤は即刻小斎城の堀切普請(工事)を行う。それから5年を経た1581年(天正9)【一説に1582年(天正10】、父・好信の仇である桑折左馬介が金澤美濃(為信の縁者)が従者百人ほどで小斎城を訪ねた時、為信は長年の父の怨念を晴らすべく、逆心に及び左馬介を美濃もろとも討つ。(左馬介らに同行した従者のほとんども斬殺か?)

その際、為信は利を求めて伊達に寝返ったとの風評が出る事を嫌い、伊達氏よりの一千石の加増の申し出を断り、代わりに伊達氏一族(上から四番目の家格)として迎え入れられる。
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1591年(天正19)佐沼合戦における佐沼城攻略の際に、攻城の突破口となる沼地の浅瀬を進行中、兜の八幡座(兜の頭頂部にある髷を出す穴)を射抜かれ討死を遂げる。

   ※これが佐藤紀伊為信の甲冑である。

佐藤為信が佐沼城での合戦で戦死した時に着用していたとされる鎧甲。

ここで私は何か腑に落ちないものを感じた。それは彼が討ち死したとき、弾丸が兜の八幡座から入ったとされることである。火縄銃で討たれたなら甲に傷がつくはずである。
だがこの甲には傷がなかった。とすれば
1、八幡座から弾丸が打ち込まれた事実はなかった。
2、敵に捕まって至近距離から銃で撃たれた。
の何れかが考えられる。
或る人は彼は人に言えないような恥ずかしい死に方(落馬して死んだor自害したetc)をしたのでないか?と語っている。何れにしても直径2センチほどの八幡座から弾丸が入ったとするのは余りにも不自然と考えたいが、今となっては証明する術はない。

これはすね当てであるが当時のものが錆びていたゆえ、再塗装したものとのことである。

次回は佐藤紀伊為信が居城とした紫小屋館(小斎城)について、昨日撮影した写真を掲載の上、お伝えしたい。
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