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平成27年7月25日相馬野馬追中村城出陣式
 相馬中村城跡を訪ねて
ほぼ終日に渡って薄曇りの天候に見舞われた本日、私は或る古城跡に足を運んだ。それは薩摩藩とともに一回も所領替えをされてない大名の城である。戦国時代から幕末に至るまでの間、一回も改易(所領の移動や削減、没収)されてない大名はたった二藩のみである。

これは1590年に書かれた豊臣秀吉の朱印状(写し)である。北条氏討伐の小田原城攻めの後に出されたもので、小田原攻めに参加した相馬に対して所領の安堵(四万八千石、後に六万石)を認めたものである。

相馬氏が中村城を本拠地とした(本丸築城)のは1611年(当主:相馬利胤)である。但し、坂上田村麻呂の蝦夷征伐から何と800年ものインターバルがある。この800年の間には在来土豪同士の様々な争いがあったのは想像に難くないが、今回は記事の趣旨上、他方向に風呂敷を広げる傾向になってしまうゆえ、敢て割愛させて頂きたい。それにつけても、本丸築城後から四百余年しか経てない現在を察すると、この八百年という年月は実に驚嘆に価するものがある。

JR相馬駅から南西に向かうと中村城の外堀に遭遇する。

これは中村城二の丸の北東部の内堀である。中村城は数百年を経た今もさほど往時と変わっていない。これは極めて希ということである。

これは1702年於ける中村城である。(相馬市の文化財NO,6より)

平面図だけではややわかりづらいので鳥瞰図をご覧頂きたい。(余湖くんのブログより転載許可を確認のうえ引用)

次に航空写真をご覧頂きたい。現在は中堀部分の大部分が埋められ、往時の面影はなくなった。それを踏まえ現在の航空写真に往時の堀を記入することにした。
(鈴木啓著「ふくしまの城」を確認の上作成。)
赤:内堀
オレンジ:中堀
青:外堀
何と三重に張り巡らされた堀。それにしても備えが厳重である。中村城は殊の他、北に対して強い城と言う。それは坂上田村麻呂の蝦夷への備えであり、第17代相馬家当主・相馬利胤に於いては北の強敵伊達家に対する備えでもあった。

大手一の門は1649年に建てられたものである。

これは中の門の脇(西側)である。本丸跡に行くにはここからのアプローチとなる。

これは東二の丸の丸土張(馬出)である。有事にはここから騎馬が出された。

東二の丸は今は野球場になっている。

東二の丸は江戸時代中期には藩主の邸宅があったところである。

1611年に建てられた本丸は167年の落雷で消失し二度と建てられることはなかった。中村城に本丸が存在したのは僅か59年の期間であった。

これは鈴木啓氏による平面図再現である。私は一目見て、6万石の大名にしては非常に広い城構えと思った。

相馬中村城
平安時代初期(800年頃)に坂上田村麻呂が奥州鎮撫のために城を築いたのが最初と伝えられており、南北朝時代から戦国時代初期までは中村氏の居城であった。その後、相馬氏の勢力が増すと、中村氏を滅ぼした相馬盛胤(奥州相馬家第14代当主)本城である小高城に加えて、この中村城に城代(相馬隆胤)を置いて伊達氏と抗争を繰り返し

1611年(慶長16)、盛胤の孫である相馬利胤の時代に、本城を中村城に移転した。現在は馬陵公園として整備されており、大手門のほか石垣や土塁、堀が現存する。公園内にある相馬中村神社では毎年7月末に行われる総大将出陣式が行われる。

 考察
相馬は鎌倉時代に奥州相馬家の始祖とされる相馬重胤が移り住んでから一回も国替えされることなく、幕末まで存続に至った。相馬中村城は堀が三重に巡らされるなど、非常に守りの固い城という印象を持った。

幕末時の戊辰戦争では小藩ゆえ、新政府軍に転んだ相馬であったが、これも生き残るには止むを得ない選択と捉えている。

私は祖先を伊達の下級武士とする身であるが、ライバル相馬には畏敬を感じている。相馬は「東奥の君子国」とも呼ばれるが、平家の血を引く同家に相応しい形容詞と受け止めている。
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