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スペイン国歌「国王行進曲」
15世紀から16世紀に於いて世界各国を植民地とし、日の沈まぬ大国と言われたイスパニア(現スペイン)の栄誉を祝し、先ずは同国国歌(国王行進曲)をリンクした。動画に於いては奥州の覇者伊達政宗が派遣した支倉常長が立ち寄った施設が多く散見される。このあたりにも着目頂ければ幸いである。

出入りの図書館で石出みどり著「スペイン」を借りた。この本は極めて興味深い内容に溢れていた。特に往時無敵と言われたスペインの無敵艦隊が1588年8月に英国、オランダ連合軍に敗れ去った史実に私は改めて驚愕を感じた。

(以下:ぱぷう家のホームページとWikipediaから引用しミックが編集)
 無敵艦隊の敗北の謎に迫る
私は一昨年に歴史小説「金色の九曜紋とともに」を書いた。その概要は奥州王・伊達政宗が天下取りの野望を賭け、支倉常長を欧州に派遣した慶長遣欧使節団に関するものである。実は伊達政宗が幕府を出し抜き、往時超大国と言われたスペインと直接貿易を果たそうとした時、既にスペインは全盛期を過ぎ陰りが見え始めていた。それは無敵艦隊と言われたスペインの船団が1588年の夏、「アルマダの戦い」で英国、オランダ連合軍に敗北を喫した所以である。本日は何故無敵と言われたスペイン海軍が「アルマダの戦い」で連合軍に敗北を喫したのか、私の考察を交えながらお伝えしたい。

往時の英国に目を移そう。時代はエリザベス1世(在位1558~1603年)の頃、往時の英国は財政難を補うためにスペインの貿易船からの略奪を許可していた。また、イギリスが大陸へ輸出していた毛織物の貿易市場アントワープがあるネーデルランドがスペインの支配下にあったという問題もあった。

※エリザベスⅠ世(1533~1603)

※エリザベスⅠ世と対立したイスパニア国王フェリペⅡ世(1527~1598)
威厳に満ちた国王の表情からは「新興国イギリス何するものぞ」という気概が感じ取れる。

このため、イギリスとスペインの間の緊張関係が続いていた。1588年、アルマダの戦いが勃発し、イギリスはスペイン艦隊の侵攻を受ける。海洋大国スペインの狙いはロンドン占領であった。当時のイギリス艦隊は弱小ではあったが、海賊あがりの提督フランシス・ドレークらの活躍により、世界最強とされていたスペインの無敵艦隊(アルマダを打ち破り、海上国家への発展の足掛かりを築いた。

※フランシス・ドレイク(1543頃~1596)

15885月、メディナ・シドニア公率いる約130隻のスペイン無敵艦隊がリスボンを出発した。

無敵艦隊に立ち向かった英国のガレオン船団

無敵艦隊は7月末から8月初めに行われた一連の海戦の後のグラヴリンヌ沖海戦でイングランド艦隊に敗北して作戦続行を断念し、北海方向へ退避した。

※ニコラス・ヒリアード画グラヴリンヌ沖海戦

無敵艦隊はスコットランドとアイルランドを迂回して帰国を目指すも、悪天候によって大損害を蒙る。無敵艦隊は実に二万人にも及ぶ死者を出したとされる。結局スペイン本国に帰還できたのはリスボン出港時の約半数の67隻だった。

※スペイン無敵艦隊のとったルート

死傷者は2万におよび、一説ではスペイン衰退の予兆となったとも言われるが、そんなことで揺らぐような国ではなかったとする説に私は一票を投じたい。

ただし、この戦いの後イングランドは反攻作戦に失敗して戦争の主導権を失い、一方、スペインは艦隊を再建して制海権を守り通しており、戦争は1604年にスペイン側有利で終わっている。従ってイギリスが海洋覇権国家となるのにはまだ長い年月を必要とした。

※死闘を繰り広げる両軍

 ミック考察
この戦いに於ける無敵艦隊の敗北の原因はガレオン船の性能差とも大砲の性能の差とも言われる。細部を探れば確かにそうかも知れない。そういう戦略的な考察は他のサイトに譲り、本日は私なりの私見(木で言えば幹に当たる部分)を述べたい。

スペインはかつてポルトガルとともに海洋大国と言われた。然るに、聖書に「剣を持って栄えるものは剣をもって滅ぶ」という言葉があると聞き及んだ。また「仇を討った者は仇をもって反される」という普遍性は様々な史実から学んだことである。スペインの繁栄と衰退はまさしくこれらの通りと言わざるを得ない。

スペインはアフリカやアジア、新大陸で数え切れないほどの侵略を行い、それまでの原住民を迫害し虐殺に及んだ。それはキリスト教布教という名目を大義とした侵略であった。石出みどり著「スペイン」に目を通すと、その残虐性はとても言葉に現し尽くすことが出来ないほどである。

フェリペⅡ世の下で全盛を向かえたスペインは新興勢力の英国(オランダ)の前に敗れ去った。我が国の戦国時代に於ける天下分け目の戦いが「関ヶ原の戦い」なれば、世界史の中世に於ける「関ヶ原の戦い」はまさしく「アルマダの戦い」と言っていいのではないだろうか。

伊達政宗は陰りの見えたスペインに使節を派遣したことになるが、往時の情報網を察すれば致し方なかったと受け止めている。
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