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自らの命と引き換えに藩を救った仙台藩士たち

現代組織社会と侍社会の相違
前回の記事で私は侍社会と現代の組織社会が酷似していることを述べた。ここで両者の決定的な違いも述べておきたい。それは現代に於いての組織社会は憲法第13条の「個人の尊重」と同14条の「法の下の平等」に縛られていることである。即ち、殿様と家臣の関係は公私ともに死ぬまで継続するものであるが、組織社会に於ける上下関係は仕事が終わって会社を離れれば成り立たなくなる(あくまで建前上)ことである。世にこの道理がわからない御仁も多い。ゆえに、年上の部下にため口を利く年下の上司は見苦しく足元のおぼつかないものを感じるのである。

論語に「君子に徳があれば民は自ずと是に従う」という意味の言葉があった。私はこの場を借りて、世の管理職や取締役を名乗る御仁に於いてはこの言葉を心に刻んで部下に接して欲しいと望んでいる。そうした理屈のわからない御仁は人を使う資格はない。使われる者の気持ちがわからない者は人を使うべきでない。私はそれをはっきりと言い切るものである。

先日NHKの或る番組で仕事場に於ける世間話の重要性を訴えるものがあった。勿論無駄話は蛇足以外の何ものでもないが、世間話は職場の人間関係の潤滑油と成り得るものである。但し、この場で求められるのは人の話を黙って聞く器量である。人は聞くときよりも話すときのほうが快感を感ずるものである。ゆえに上役になった者は部下の話を十分に聞いてやってもらいたい。これを遂行するだけで、使うほうと使われるほうの敷居は自ずと低くなる。このあたりは侍社会と現代の組織社会の決定的な違いである。

自らの命と引き換えに藩の存続を望む。こうした考えは現代社会とはまったく無縁なこととも捉えらるがけしてそうではない。もし貴殿が家族持ちなら家族を藩や主君に置き換えるがいい。「あなたは家族のためなら死ねるか?」、もし私が人様からそう聞かれた際は「喜んで死ねます。」と自信を持って答えるだろう。

寒中の奥州街道、ばったりと出逢った里見十左衛門(左)と伊東七十郎。この二人も藩や主君のためならいつ死んでもいいと考えた侍であった。侍にははどんなときでも命を張れる器量がなければならない。ゆえに幼い時からそれを学ぶために儒教に向き合うのである。

竹の切り口をご覧頂きたい。ターゲットに怪しまれないように、二間の距離を置いて呼吸半分の間に竹を斬る。里見十左衛門は毎日これを己の稽古とし伊達兵部暗殺をいつしか果たそうとしていたのである。確かに非日常的なことに及ぶのであれば稽古は避けて通れないものである。

伊達兵部の陰謀で捕らえられる伊東七十郎、彼は仙台の広瀬川で斬首されたが、一つ間違えば彼は伊達騒動の主役になっていたはずである。だから彼には熱いものを感ぜずには居られないのである。

左は津多(原田甲斐実母、後に慶月院)である。甲斐に恋心を抱いた宇乃が江戸に出向いて甲斐のそばに添いたいと聞き、「それは成りません」を繰り返した。
武士の妻や母はこうした局面に接したときは、こういう毅然たる態度を示さねばならない。何も昔気質という言葉は今に始まったことでないと私は受け止めている。

然るに、原田甲斐にばかり脚光を浴びせがちになる「樅ノは残った」であるが、私はこの脇役(伊達安芸重宗)にも注目して欲しいと思っている。

1671年早春、みぞれの降る涌谷(宮城県北部には涌谷城なる居城があった)を出立しようとする伊達安芸。安芸は江戸への出立の日、見送りに来た百姓たちにこう語った。「わしは領地争いで江戸に上ることになったが、先月菩提寺に行って生きながら法名をつけてもらった。わしは夕べ家の者、家来と別れの盃を交わした。皆とは盃を交わす暇はなかったが、今をお互い、顔の見納めと思うてもらいたい…」

みぞれの中、ひれ伏した百姓たちのむせび泣くような時間が過ぎてゆく。

このとき百姓代と見られる者がこう告げた「殿様!天下の悪者たちを退治してどうぞ無事に戻ってくださいませ。わしらお待ち申し上げております。」東北人は何事に於いても義理人情受を優先する。この場面は或る意味でこのストーリーのクライマックスと捉えても何ら違和感はない。ゆえに何度見ても涙なくして見れないシーンである。

さて、私は一昨日、侍の一人称、二人称について述べたが49分20秒ころ登場するシーンに着目して頂きたい。50分過ぎから老中・久世大和守と大老・酒井雅楽頭のやりとりが登場する。この中で老中の久世が二度にも渡って酒井を「そこもと(貴殿)」と呼んでいる。

そして、大老の格下である老中が「さすれば今度の騒動の原因は伊達家重臣たちの私欲や非力にあったのでなく、そこもとの画策にあったことが歴然と致しましょう。雅楽頭殿、あの証文覚えがございましょうな?」と大老に詰め寄る久世。真の君子とは実社会の主従関係を超えたところにある。彼こそはそれを見据えた人物であったに違いない。

密約が表沙汰になるのを恐れた雅楽頭は口封じのため、伊達家重臣全員の斬殺を命じ殺陣が組まれた。外様は幕府の仇ゆえ、これは史実に於いては十分在り得たことと受け止めている。

寛文事件唯一の生き残りである古内志摩、彼はこのとき受けた傷がもとで二年後の1673年に死去した。彼が死んだ後は全てが過去のもの、そして深層は闇の中に消えるものとなった。

寛文事件は極めて難解ゆえ、誰が忠臣で誰が逆臣かで様々な物議を醸し出してきた。だが、それに拘ると真の核となるものを見失う可能性がある。即ち、昨今の私はそうした論争に直面した時、「藩の存続にとって有能な家臣がつくかつかぬかが大きな問題」と焦点を変え、敢えて忠臣と逆臣の問題には拘らないようにしているのである。
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