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鬼越館に込められた佐藤好信の怨念
昨日の8月11日、JR日立木駅を降りた私は市道を東へと向かい国道6号線そばのファミリーマートのところに来た。右側に少し見える白い建物がファミリーマート、その向こうの小高くなった丘が鬼越館である。

鬼越館の立て札である。インターネットで下調べをして鬼越館へのアプローチは北側の私道となっていたので、この時点で山頂に至るのはたやすいと思っていた。ところがこれが甘かったと思い知ることになるのである。

これは宮城県南部~相馬の戦国時代に於ける城(館を含む)である。
赤:鬼越館
オレンジ:中村城(馬稜城)
黒:黒木城
桃色:駒ヶ嶺城
紫:新地城
橙:坂元城(蓑首城)
黄色:小斎城(紫小屋館)
白:金山城
薄茶:丸森城(丸山城)

※これらの城や館は今年の5月ころから全て自分の足で巡っている

ここで着目して欲しいのは鬼越館(赤)から小斎城(黄色)に至る距離である。直線距離で10キロゆえ、実質13キロといったところである。佐藤好信の嫡男為信は1560年代後半から鬼越館が相馬氏によって滅ぼされた1582年ころまで、相馬の下でこの二つの館を支配していたようである。為信は時々鬼越館には戻っても、多くは伊達との戦線の最前線拠点であった小斎に詰めていたと推測している。

これが現在の鬼越館入り口(今は神社が鎮座している)の部分であるが、この入り口を見つけるまで30分近く付近を行ったり来たりしてしまった。神社を管理しているかたが運悪く不在だったため、二軒の民家を訪ね歩いたがそれでも入り口が見つからず、諦めて帰ろうとしたときに、偶然フェンス越しに目に止まったのがこの鳥居であった。

この赤い鳥居からの登坂ルートが戦国時代のものと同じルートだったかどうかについては定かでない。ただし、一部のサイトには堀切や土塁、郭、虎口を認める写真が掲載されていた。読者様には今回の探訪との一部の一致を見る(写真を撮ったもののあまりにも樹木が繁茂していたせいで上手く撮れていない)ものであったことをお伝えする。

このへんでこの館の城主であった佐藤伊勢好信について紹介したい。
以下Wikipediaより引用
佐藤伊勢好信(1511~1565)
源義経の家来であった佐藤忠信・佐藤継信の子孫を名乗る。今の福島県浜通り地方を中心に活躍する。祖父摂津盛信は岩城氏(富岡城)の重臣であったが、相馬氏の武勇を慕い富岡右京進・富岡美濃らと共に相馬領へ来て相馬顕胤・盛胤の二代に仕え、現相馬地方に七邑(村)(磯部、蒲庭、柚子、日下、石立、立谷、富沢)を賜わり、草野直清・青田顕治の反乱鎮圧戦などで活躍する。軍奉行として多くの功績を立てたが、それを妬んだ相馬家臣・桑折左馬介の讒言に遭い、軍奉行職を解かれたうえ、所領を没収された。臨終では主君(相馬盛胤、義胤父子)を呪い、その恨みを晴らすことを子の為信に遺言し、失意のうちで54歳の生涯を閉じる。鬼越館は彼の死の二年前に建てられたものと思われる。

また彼の嫡男佐藤伊勢為信についても紹介する。
佐藤伊勢為信(後に佐藤宮内とも、佐藤紀伊とも)(1532~1592)
1570(元亀元年)から小斎城代となる。1577(天正5)の伊達と相馬の和解で4年ほど小斎城を離れたが、1581年(天正9)に相馬盛胤父子が攻め落とし、再び城代となる。
そして翌年の1582(天正10)に父親の仇を晴らすべく、伊達氏に寝返った。その際、利を求めて寝返ったとの風評が出る事を嫌い、伊達氏よりの一千石の加増の申し出を断り、代わりに伊達氏一族(上から四番目の家格)として迎え入れられる。1591年(天正19)佐沼合戦における佐沼城攻略の際に、攻城の突破口となる沼地の浅瀬を進行中、兜の八幡座(兜の頭頂部にある髷を出す穴)を射抜かれ討死を遂げた。

拡大航空写真をご覧頂きたい。
赤○:神社
黄色●:立て札

鬼庭館鳥瞰図(「余湖くんのブログ」より転載可能を確認のうえ引用)

これは1560年代の相馬に於ける黒木、中村の内乱(伊達に寝返ろうとする武将とこれを駆逐しようとする忠臣との内乱)の図解(森鎮雄著「戦国相馬三代記」上巻より引用)である。

斜線が寝返ろうとした勢力(相馬から見て逆臣)、無地が忠臣派である。赤で囲んだ立谷が鬼越館の別名である。こうして見るとこの地のあたりが騒動の中心だったことが窺えるものである。

相馬家臣の讒言のため、相馬から冷遇された佐藤父子を巡る伊達と相馬の情勢は極めて複雑なので自分なりに整理してみた。尚、参考にした文献は森鎮雄著「戦国相馬三代記」の他、紫桃正隆著「みやぎの戦国時代 合戦と群雄」などである。インターネットに掲載されたものとも細部が異なるゆえ、自信はないが、読者の皆様に於いては、今時点のわかり得る現状(見直しは在り得る)として捉えて頂きたい。

尚、文献やインターネットに於いて内容に食い違いが多い理由としては、このあたりは資料が限られているゆえ、専門家に間でもかなりのグレーゾーンなものと推測する。
小斎城(紫小屋館)から見た情勢
・1542~1548天文の乱(天文11年から同17年間に渡り伊達氏14代当主伊達稙宗と嫡男晴宗父子間で内乱が起き、稙宗(娘を相馬氏14代当主相馬顕胤に嫁がせていた)と懇意にしていた相馬氏との間に軋轢を生じる。
・1553年(天文22)伊達晴宗(伊達氏15代当主・伊達政宗祖父)が懸田城主である懸田俊宗(伊達家臣。陸奥国伊達郡懸田城主。晴宗に従わず、稙宗に加担した。)を滅ぼす。
・1564年(永禄7)相馬盛胤(相馬氏第15代当主)、嫡男義胤とともに現宮城県名取郡座流川で伊達晴宗と戦い、伊達勢を多く討ち取り攻勢に出る。
・1565年(永禄8)丸森城(丸山城)に幽閉されていた伊達稙宗が死去する。
・1566年(永禄9)相馬勢、伊具郡金津(現宮城県角田市)、小佐井(現宮城県丸森町小斎・当時の城代は八替七郎兵衛)、金山城(丸森町)を攻め落とし一挙に手中に入れる。盛胤は小斎城主として藤橋紀伊を任命する。
・1570(元亀元年)藤橋紀伊が金山城に転封され、佐藤為信が城代となる。
・1576年(天正4)相馬攻撃態勢を固めつつある伊達晴宗、輝宗父子に対して田村清顕(伊達政宗の舅)が和睦を呼びかけるが和解に至らず。佐藤為信、相馬家老になる。
・1577年(天正5)晴宗が病床につき、一時的に和解が成立。この時小斎は再び伊達側の手に渡ったと思われる。その後の城主は小斎平兵衛某。
・1578年(天正6)相馬盛胤が隠居し、嫡男義胤が家督を相続。盛胤は中村城(現福島県相馬市)に入城する。
・1581(天正9)7月矢野目館の戦い(現丸森町)が起き、相馬勢が大勝し、小斎城は再び落城。佐藤為信再び城代となる。
・1582(天正10)5月佐藤為信謀反に及び、加番に訪れた相馬方・金沢美濃、桑折左馬介(親の仇)、門馬七兵衛、渡辺縫殿介を討ち取る。
・以後幕末まで小斎は伊達領となり、佐藤家の当主は代々佐藤宮内を名乗る。

鬼越館側から見た情勢
・1563(永禄6)頃、それまでの居城(磯部館)が波の侵食を受けて住めなくなったことで鬼越館に移転する。その二年後に佐藤家当主好信が藩主や桑折左馬介を呪い憤死する。
・1570頃~1577頃、好信の嫡男為信は丸森小斎城城代であったため、鬼越館は彼の家臣に任さていたと推測。
・1582(天正10)5月佐藤為信が謀反に及んだため、鬼越館は相馬方に滅ぼされ廃城に至ったと思われる。

神社の由来には磯部掃部守佐藤伊勢守館あり云々となっているが、磯部掃部守佐藤伊勢守とは佐藤好信のことである。

一見すると父好信の無念を子の為信が晴らしたように見える。但しその張本人が別な戦で兜に開いた髷を出す穴から銃弾を受けて死んだことに関して紫桃正隆氏は「これも何かの因果か?」と語っている。これを解せば「仇を討ったものは仇で返される」とも捉えられる。

佐藤父子を巡っての伊達相馬の争いは非常にインパクトが大きいので、将来的には歴史エッセイなどの創作に結び付けたいと思っている。
返す返すも読者の皆様には、創作を目的とした研究途上での資料ゆえ、史実との間違いがあったら何卒ご容赦頂きたい。
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