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中編小説「我が後半生と武士道」後編
  第三節「支倉常長への成りきり」
発病から二年を経てうつを脱した私は「躁」という前代未聞の何物に向き合わなければならなかった。躁に変わりたてだったころ、私は所構わず大きな笑い声を上げた。恐らく今思えば快感を司る物質が体内から分泌されたからと思われるが、これが周囲の人に不快感をもたらすものだと気付いた時はだいぶ後になってからのことであった。それだけこの病は自覚するのが難しい病なのである。但し、このころは躁のみでなく、しばしうつにも見舞われた。これは単独のうつとは意味が違っていた。

躁という快楽からうつにスイッチが入ったとたんにまるで高い崖から突き落とされるような烈しい絶望感に見舞われるのである。私は家族のことを頭に思い浮かべて必死に死神の誘惑と戦った。この時、医師からリーマスという薬は処方されていたのであるが、これが効いているという実感はまったくなかった。主観的に効き目だけをいうのなら睡眠薬だけは明らかに効いたと記憶している。

不安感に駆られたときは睡眠薬を飲んで早めに眠りについた。但し、この睡眠薬の量を間違えると翌日の午前中まで意識朦朧となり仕事にならなかった。だから休みの前日にしか、この睡眠薬療法は出来なかった。また、この頃は時々誇大妄想などがあったために職場では何かとトラブルを起こしがちになった。そんな経緯もあり、私は二○○八年の早春、二度目の休職に追い込まれた。

二週間を経て職場に復帰した後も不安定な状態は続いたと思うが、何せ当の本人にはほとんど自覚症状がないので、このあたりの話は今になっての私の回想である。職場復帰した私はこのころ夢中になっていたゴルフをもっと上手になりたいと考え、帰宅後のゴルフ練習場通いが毎日の日課となった。

私は何かにつけて、うつになった時のことを思い出し、これを何度も悔いていた。一度下がった信用や評価はなかなか元に戻らない。自分にもっと強い心があったならうつ病にならなかったのにと何度も思った。

こうしたいきさつを経た私が伊達政宗の次に成りきったのは政宗の家臣、支倉常長だった。彼は主君である政宗の命により、七年の歳月をかけて仙台藩とスペインの通商の成立に尽力したが、当初の目的は達せられなかった。しかし彼は侍特有の強靭な精神力で困難に立ち向かった人物である。私はその強靭な精神力を彼からあやかりたいと考えたのである。彼は通商成立のためキリシタンに改宗しながら最後までけして諦めることがなかった。結果は伴わなかったものの、彼自身には恥ずべきことは何もなかった。私はここに自分が見習うべきものがあると思った。但し、彼に興味を持つに至った経緯は彼の主君である伊達政宗への畏敬の念があったからにほかならない。

                 ※仙台藩士・支倉六右衛門常長



奥州大名、伊達政宗家臣。一六一三年十一月(慶長十八年九月)にメキシコ、スペインとの直接貿易を望む伊達政宗の書状を携え、スペイン人宣教師ルイス・ソテロとともに、180名を率い仙台藩で建造された500トンの巨大木造船(サンファンバウティスタ号)でスペイン国王、ローマ法王に使節として派遣される。

往路は太平洋を横断しメキシコ、アカプルコに入港後、陸路を経て大西洋を横断しスペインに至った。スペインでは当時の国王、フェリペⅢ世立ち会いのもとキリシタンの洗礼を受けるが、貿易実現の目的を果たせず、ソテロの力添えでローマに向かう。(スペインに残された文書よると彼は威厳あり、容姿整い、沈着、賢明、謙譲と記録されている。)

ローマ到着後の一六一五年十一月、法王パウロ5世に謁見がかうも、宣教師派遣の同意を得たのみで、当初の目的は果たせずに帰国の途に着く。帰路はフィリピン経由で一五二○年に仙台に戻る。彼の帰国とほぼ同時に伊達政宗はキリシタン禁止に踏み切る。支倉は数々の献上品を政宗に渡した後、一五二二年七月、失意のうちに五十一年の生涯を終えたとされる。
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こうして支倉常長に興味を持つに至って、私は休みを利用して彼のゆかりの地を訪ね歩いた。石巻市のサンファン館には何度も行って体験シュミレーター(映像を見ながら船の揺れを体験できるミニシアター)にはその度乗った。この時彼に成りきったのは言うまでもない。また彼の六箇所あると言われる墓所のうちの主な三箇所を訪ね歩いた。後に、この時の成りきりを利用して歴史小説「金色の九曜紋とともに」を執筆したり、書き上げた作品を支倉常長の末裔に渡すために、仙台藩志会に出席して支倉常隆氏(第十三代支倉家当主)にも会ったりした。

常隆氏には、「ご自身の先祖である支倉常長は私に生きる道標を説いてくれた人物であり、どん底にあった私を救ってくれた人生の恩人でもあり大変感謝しています。」と述べ厚く御礼申し上げた。支倉常長が主君である伊達政宗のためならいつでも己の命を差し出してもいいように、私も家族のためにいつでも死ねる。そんな心境に少しでも近づきたかったのである。

支倉常長の律儀で一途な生き方は私にそんなポリシーを与えてくれた。然るに、確かに支倉常長は一途であり、人として恥ずべきところのない立派な人物であるが、「生き残り」ということに関して何か足りないものを感じた。但し、この「生き残り」に関しては彼の運命とも言えるもので、仙台藩に殉じた彼の術の及ぶ範囲でなかったのが悔やまれる部分である。
 
  第四節「大内定綱への成りきり」
支倉常長の他には同じく仙台藩士、大内定綱備前にも引かれるものを感じた。それは「生き残り」ということに関してである。司馬遼太郎の「馬上少年過ぐ」によると伊達政宗は梟雄であり、権謀術数に生きた武将としているが、後に政宗の家臣となった大内定綱の権謀術数ぶりを文中に著している。

奥州大内氏は元々西国の周防大内氏の枝葉が日本各地に散らばり福島県中央に流れ着いた末裔とされる。伊達世臣家譜によると定綱の祖父は優婆塞(修行者)で月山辺りに巣食っていた山伏が居着いたのではないかと言われる。現福島県仙道筋の塩松郡で様々な謀略をもって豪族にのし上がった大内定綱は大身の伊達に対して只者でない変わり身の速さを見せている。天正十二年(一五八四年)に政宗(正室は田村清顕の娘・愛姫)が伊達家の家督を継ぐと、定綱は政宗の家督襲名の席に真っ先に訪れ、伊達氏への奉公を表明している。これは伊達家の力を評価しての行動であり、政宗の器量を伺いに来たとも思われる。

しかしここで政宗はまんまと一杯食わされるのである。すぐ戻ると称し自領(塩松)に帰った彼は二度と米沢には戻らなかったのだ。「定綱は伊達を舐めている。定綱討つべし!」、背任を働かれた政宗はもちろんのこと、伊達家の家臣はくせ者定綱に激しい嫌悪と怒りを露にした。

翌年の天正十三年(一五八五年)、政宗は田村氏に加担して定綱を攻撃し、小手森城で撫で斬りを行うなどして定綱を追い込んだが、定綱は小浜城を放棄して二本松へ逃れ、更には会津の蘆名氏を頼った。三年後の天正十六年(一五八八年)、郡山合戦の際には蘆名氏の部将として苗代田城を攻略するが、伊達成実(伊達政宗の従兄弟)の誘いに内応し、弟の片平親綱と共に伊達氏に帰参することとなった。

※大内定綱(NHK大河ドラマ「独眼流政宗」より)



それにしてもなんとも凄まじいばかりの謀略ぶりであるが政宗もよく堪忍袋の尾が切れなかったものである。逆に言えば小国の主はここまですべ辛く立ち回らないと生き残れない時勢だったと言えるのかも知れない。この男は周囲の力関係で己の奉公すべき主人を決めていたきらいがある。それ故、伊達家とその敵対する大名を行ったり来たりしたのである。但しこの男は単なる風見鶏ではなかった。頭脳明晰でありかつ弁も立ち、他の地域の武将へのコネもいっぱい持っていた。政宗がこの男を殺さずに家臣として抱えたのはそのような理由があったからである。

政宗は父輝宗を亡くした際、敵であった二本松城主畠山善継の遺骸を切り刻み再び蔓で結び合わせて数日晒しているがこの大騒動の基となった定綱本人を討たなかったのである。その後、伊達成実(政宗の従兄弟)の説得で伊達藩に内応した定綱は二度と寝返ることはなかった。秀吉の命令による小田原の北条討伐にも彼は政宗に同行し、政宗遅参の疑惑解明に一役買っているのである。そして数々の戦で勲功を立て政宗の絶大な信用を得ることとなった。

こうした定綱の波乱万丈とも言える生涯を見ると、伊達政宗という武将は実力重視でその武将を評価し、臣下に置いた傾向があったと感じる。定綱は以後、摺上原の戦いや葛西大崎一揆鎮圧、文禄、慶長の役にも従軍して功績を立て天正十九年(一五九一年)、政宗が岩出山城に転封された後、胆沢郡に一万石の所領を与えられ前沢城主となった。

政宗の片腕とされた片倉小十郎景綱でさえ一万三千石であり如何に彼が評価されていたかが伺い知れるものである。政宗に忠誠を誓いその半生を捧げた大内備前定綱はこうしてその波乱万丈とも言える生涯を閉じた。彼が戦国から徳川の世へと生き伸びることが出来たのは主君政宗以上に奇跡中の奇跡と言えるのかも知れない。

私は自分自身がサラリーマンとして生き残ったのを奇跡と捉えている。大内定綱の権謀術数ぶりに深い感銘を受け、一昨年郷里石巻で訪われた伊達武者行列では大内定綱の旗指物を身に付け彼に成りきった。真面目だけが能でない。正攻法だけが全てではない。生き馬の目を抜かれる現世に生き残るならば、時にずる賢さも許されよう。私は精神病を患った自分には権謀術数さが欠けていたと悟り、これからのサラリーマンとしての生き残りを賭けて、彼にあやかりたいと思っている。

※2013年11月3日、郷里石巻市で行われた伊達武者行列で大内定綱に成り切った私


  
第五節「武士道の修得で精神の安定を図る」
もしここで人から「あなたはうつ病になって何を失ったか?」と聞かれたら「社会的信用と名誉です。」と答えることだろう。信用は仕事をこなすことである程度は回復することが出来るが、失った信用を完全に回復するには以前の三倍~五倍くらいの貢献をしないと元には戻らないと捉えている。従ってこれは今の自分に与えられた課題である。

然るに、私はここで失ったもう一つである名誉を回復するには武士道が必要と考えたのである。躁うつ病特有の副産物により何人かの侍に成りきった私であるが、それは表面上の強がり(猪武者や匹夫の勇の類)だけであってはならないと考えた。真の侍の心を知るには武士道の本質を学ぶ必要があると考えたのである。

こうしたいきさつで新渡戸稲造の『武士道』を読んだ。新渡戸稲造の『武士道』の中では「侍にとっての忠誠は名誉遂行の手段であり、けしてその逆ではあり得なという言葉が印象に残った。即ち、武士たる者はただ単に強い気持ちがあればいい というものではない。その根底には儒教の教えに基づく礼節、仁義、忠恕の心がなければ ならない。これらが合わさってこそ初めて武士道と言えるのである。

武士道を己の生き方の基盤とするならば、心の悩みは己の内面に留めるべきものなのかも知れない。但し正道を貫くには単にコンプライアンスのみでなく、社会倫理がどんなものであるのか知らなければならないし、モラルが乱れつつある組織に於いては、時として自己アピールも必要となろう。常識ある人間として現世を生きるには正しい倫理感も身につけねばならない。

己の姿が映った鏡をなるべく歪みのないものにしたい。歪みのない鏡を手に入れるのには我が国の倫理の基盤となった儒教精神の代表である論語を学ぶほかあるまい。こうした経緯を経て、私は日本人の道徳の礎となる儒教の心を理解するべきと思うようになり、昨年の夏、仙台市の或る図書館で教育ビデオを見たそれは。それはNHK人間講座「論語紀行」(坂田新氏解説)全十二話である。ここではその中で特に印象に残った言葉を紹介したい。
 
※『怪力乱神を語らず』
 
「怪」は怪奇で不思議なこと
「力」は怪力を意味し力が強いこと
「乱」は道理に背き世を乱すこと
「神」は鬼神のこと
 
これは孔子は理性では説明がつかないようなこの四つの言葉をけして口にしなかったという姿勢を弟子が語ったものである。今の自分は以前の自分より気が短くなり、何かと激情にかられやすくなったので、こうした己への戒めは常に心がけたいと思っている。
 
※五十にして天命を知る
 
実は天命には二つの意味が存在する。一つは使命であり、天から自分に与えられた仕事や人生に於いて成すべきことをいう。もう一つは宿命(運命)であり自分の努力ではどうすることも出来ないことがらをいう。坂田氏によると孔子はこの二つを良く理解するのが肝要であると述べているという。世には己の努力ではどうしても及ばないことがある。ゆえにこの言葉の意味は自己客観視というよりも、人間の普遍性を説く言葉として己の心の奥底に刻みたいと思っている。

※在りし日の坂田氏



自分はあることで人を怨むことがあった。正直言って今でも恨んでいる。従ってこの言葉は今の自分にとって最も大切な言葉なのかも知れない。人の生き様はよく大河に例えられるが、坂田氏によると論語に於いても同じだという。大河は時として流れる量が変わったり、にごったり、澄んだりするが、その根底の流れは数百年、数千年を経ても変わらない。

論語はその人その人に生き様に於いて様々に解釈され、啓発に使われるものであるという。今回この六時間に達する鑑賞を経て私が掴んだのは人間として成すべきことはいつの世になっても変わらないということである。私は自分の天命を正しく理解し、啓発に努め、少しでも煩悩がもたらす心の中の暗雲を取り払おうとする精進をこれからも怠らないで生きてゆくことだろう。
   完
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