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※著者挨拶
連休を利用して新たな中編小説に取り組みました。私がこの世に生きた証としてこの作品を残したいと思います。原稿用紙で30枚ほどの中編になるため、二回に分割しました。何卒乱筆をお赦しください。読者様に於かれましては何卒今後とも宜しくお引き回しのほどお願い申し上げます。
中編小説「我が後半生半と武士道  」                                           
     第一節「うつ発症とともに消えた野望」                         

私が精神的不調を脱出して今年で七年になる。但し、うつと戦った二年の間は無我夢中で、どうやって人生最大の危機を乗り切ればよいのかわからなかった。在るのは日々の焦燥と不甲斐ない己との葛藤の末のみじめな煩悶だけであった。二00五年十二月、転勤先の東京から九州出張を言い渡された私は、慣れない土地での仕事と家族から離れた寂しさからうつ病を発症した。

小さな雪玉を雪原で転がすとあっという間に大きな雪玉となるが如く、最初はちょっとした不調としか思えなかったことがただ事でないと認識できた時は既に遅かった。数分前にやろうとしたことが思い出せない。それが新たな焦りに繋がる。こうして日増しに思考力と判断力、気力が大幅に衰え、仕事を遂行できる状態からはかけ離れたものとなっていった。この時周囲に「私はうつ病にかかったみたいだ。」と述べたら、「本当にうつ病なら、自分はうつ病だとわかるわけがない。」と言われ誤解を受けた。

この状態をわかりやすく説明すれば、車で言えば排気量が突然十分の一ほどになったようなものである。とにかく自分の意思とは裏腹にパフォーマンスを上げたくても上げられないのである。この不本意な状態が三週間ほど続くうちに新たな異変が現れた。それは自ら命を絶つことを考え始めたことであった。出張先である九州のウイークリーマンションでは決まって朝早くから目が覚めた。それはほとんどが二時か三時ころだった。一度目覚めると不安に駆られ二度と寝ることは出来なかった。この時私は様々なネガティブなことばかり考えた。

自分がリストラされて仕事を失ったら家庭はどうなるのか?家族と別れるくらいなら死んだほうがましである。そうした暁で自分が死んだらどうなるのか?…それならいっそのこと、ここから飛び降りれば楽になれるのかも知れない…私は毎日のように寝床の中でそのような良からぬことを考えるようになっていた。但しこの時は食欲が落ち多少頬はこけても外見上はさして健常者とさほど変わりなかった。今思えば、そのことが更に新たな誤解を受ける原因に至ったのかも知れない。

死のうか?それとも生きようか?そんな悩める私を理解してくれた一人の人が居た。私が人生の師と仰ぐその人には朝出勤する前に、藁にもすがる思いで三日ほど続けて電話した。最初はただ聞くだけだったが、二日目、三日目になり、その人には今の自分の精神状態がたただならぬことが伝わったようだ。三日目の日、すっかり気持ちが滅入ってどうすればいいかわからなくなった私にその人は「どうにもならなかったら、すべてを捨ててすぐにでも精神病院に飛び込め」と言ってくれた。

私にはその時の言葉が神仏の声のように聞こえた。「これで何とか助かる…」こうして私は職場を抜け出して病院に駆け込み、『抑うつ状態、三週間の療養を要する。』との診断書を書いてもらい何とか一命を取り留めた。

ところがその後が大変だった。家族の住む仙台に帰ってから別な病院を訪ねて医者から「あなたはどのくらい休むか?三週間か?それとも三ヶ月か?」と聞かれた。神経の衰弱していた私はこの時、三ヶ月くらい休みたい気分だったが三週間以上休んだら自分の席がなくなるのではという不安にかられて、診断書には三週間の療養を要すると書いてもらった。

こうして私は無理を押してちっとも治らないまま無理やり東京の職場に復帰した。この時心無い人から「君にはは能力がない。覇気がない。」などと陰口を叩かれたり、面と向かっても言われたりもしたが、それを言い返す気力すら沸かなかった。私の病状などどうでも良いという無関心な人も多かったが、完治すれば元に戻ると思ってくれた人はごく少数であった気がする。

こうして私は多くの人から偏見と哀れみの眼で見られることになった。生ける屍となった私は心に大きな不安を抱いたまま、ただ悪戯な人生の時の流れの中に身を委ねるしか策がなかった。それから再び仙台に戻された私は人が変ったように物事をネガティブに解釈するようになり、仕事のパフォーマンスは更に落ちていった。医者には二週間に一度ほど通い、投薬を受けたが一向に病状は変わらず、毎日出勤するのがやっとで土日は一日中寝ていた。こうして私は敗者のレッテルを貼られ、人生の屈辱を味わった。会社をいつやめようか?私はそればかりを考え陰鬱極まりない絶望の日々を送っていた。
 
    第二節「復活の兆し」
発病から二年、社会の藻屑となって消え去ろうとしていた私に奇跡的に一筋の光が差した。それは二00七年の十二月にNHKテレビで放映されたその時歴史が動いた「天下に旗を上げよ、伊達政宗、ヨーロッパにかけた夢」を見た時のことだった。私はこの番組をVTRに撮り、その後何度も繰り返し見た。恐らく二百回はくだらないことだろう。二百回も見れば一字一句違わないほどナレーションを記憶できたし、言わんとする内容も完璧に把握できるまでになった。

この時同時に非常に不思議な現象が起った。信じられないことかも知れないがこの時、自分が政宗の生まれ変わりであると本気で信ずるようになったのだ。これは彼の不屈の精神と私の負けん気が同調した瞬間でもあった。特に豊臣秀吉から国替えで領土を召し上げられたあとで、新たな領地で幸運にも金や鉄を大量に手に入れて軍事力を増強し復活した政宗が、カメラに向かって銃口を向けるシーンは私の瞼に厚く焼き付き、眠っていた闘争心を一気に奮い立たせるものとなった。



実はこの時、私は躁鬱病でも強い躁状態に陥ったのである。うつから躁にスイッチが切り替わったのである。伊達政宗への成りきりは今思えば精神医学でいうところの「成りきり」であった。そしてこの躁がもたらす「成りきり」は過剰なエネルギーを私にもたらし、その後の周囲の人との軋轢を引き起こす原因となっていくことになった。

この病気のやっかいなところはうつ病と違って自覚症状がなく、自分は正常と認識しているがはたから見ると異常にしか見えないところであった。想像できないことかも知れないが、躁の状態では今までのうつ病のマイナーな精神的要因が全く逆に作用するのだ。一言で言えば天井知らずという表現になる。夜はほとんど眠らなくても良かった。床につくといろいろなアイディアが次々と泉のように沸いてきた。車を運転すると他人の運転がかったるく感じられた。また人と話をすればほとんどの人の話はゆっくりとのんびりしているように聞こえた。世の中の動きが全て自分にとって遅いと思えるほど、スローテンポに見えた。更にゴルフウェアーは無意識のうちに黄色や赤い目立つものを好むようになった。

こんなことは人生で初めてであったが、客観視がまったくできていないため、その自覚は微塵も感じられなかった。睡眠時間はわずかな時間で間に合った。このころは目が覚めると居ても立っても居られなかった。寝床でじっとしていることがどうしてもかなわず、勢い余って会社に早朝三時半に出社したこともあった。しかしそれは常人の理解できる範囲を大きく超える異常なものであった。ハイテンションと疲れ知らずは仕事を遂行する上では大きなアドバンテージをもたらしたが、一方で極度の自信過剰、自己過大評価、誇大妄想が現れ、周囲が全く見えなくなり、多くの人と摩擦や軋轢を起こし、再び私は休職を余儀なくされた。

私がどうやってこの強い躁状態を脱出したのかを語る前に、世の多くの創作家が躁うつ病を患っていたことについて述べたい。例えば天才画家と呼ばれたフィンセントファン・ゴッホが描いた絵はその活動後期に於いて極めて特徴のあるものになっているが、有名な「糸杉と星の見える道」を見ると、確かに月や星が出ているが、夜にしてはやけに明るい絵である。晩年に近い彼の絵は夜であっても非常に明るいのが特徴である。それと独特の流れるような、或いは草木が踊るような筆つかいのタッチは普通の感覚ではとても想像がつかない。



ここで彼の肖像を思い浮かべて頂きたい。「耳を切った自画像」はあまりにも有名だが、この時の彼は躁を脱した状態と思える。この絵とは別に彼の肖像写真がある。



写真を見ておわかり頂けると思うが彼の目は非常に攻撃的である。彼は性来偏屈な性分で、人に媚を売ったり仕切られたりすることが出来ないたちゆえ、牧師になるのを諦めたという逸話がある。この写真を見る限り、或いは私自身の経験を当てはめるのであればその強い攻撃性がこういった彼特有の絵を描かせたのでないだろうか?恐らく強い躁状態(超ハイテンション感覚)だった彼の目から見た夜景は非常に明るく、そして月も星も草木も見るもの全てが踊っていたと考えられる。但し、偏屈で攻撃性のある人間は世間の反感を買いやすく、生前は評価されないことが多い。芸術家肌の彼はそれを百も承知で、独自の作風に信念を持って創作に取り組んだのではないだろうか?

ゴッホの他には夏目漱石、北杜夫、ヘミングウェイなども生前躁うつ病であったことが知られている。創作家は常にモチベーションダウンと戦わねばならないので、私は彼らは躁になった時の過大なエネルギーを上手く利用して創作に及んだものと考えている。但し、このハイテンションな状態はそう長くは続かない。チーター速く走れても短距離ランナーであり、長時間は走れない。恐らく彼らはこうしたハイテンションの後には極度の虚脱感に見舞われたと想像する。

さて、ゴッホの性分について私見を加えながら分析したが、何を隠そうこれは私自身にも共通するものがある。私はむろんゴッホのような才能には及びもつかないが、彼の人を寄せ付けようとしない偏屈ぶりや攻撃性は病状が躁に変わってから芽生えた新しい性格であり、私と共通するものがある。うつを発症するまでの私は温厚でさほど目立たない平凡なサラリーマンに過ぎなかった。そのよう平凡な人物がこの病のために全くの別人へと変わってしまったのである。

うつから脱出出来たことは大きかったがこの新たな性格を得て失ったものも大きかった。自我が強くなり人との同調を好まないため、団体で行動するのが苦手になり、多くの知人や友人が私のもとから去っていったのである。またうつの時に冷遇された人物に対する逆恨みの気持ちが湧いてきたのもこの頃であった。

職場復帰後、私に与えられた仕事ではけして容易なものではなかった。この頃ある人から相撲取りにとって一番の薬は白星(相手に勝つことだ)という話を聞いたことがあった。当然ながら白星は相撲取りにとって最もうれしいことで自信にもつながる。なにげないことだがこれは大きなヒントにもなり、励みになった言葉だった。これを聞いた私は、先ずは自分に与えられた仕事を着実にこなすことが復帰の第一歩と考えた。こうして私は組織人の一員として自我を抑え、いろいろな立場の人間との調和を考えて努力しようと考えた。しかし心の中でわかっていてもなかなか決定的な回復への手掛かりは掴めないでいた。

そんなある日、私は自分が生かされているのはけして偶然でなく、先祖が存在したからだと考えて、こっそりと実家の墓参りに行った。この時、墓に向かって合掌した私はポルトガル国歌の一節の「祖国を勝利に導く偉大なる先祖の声を聞け!」という歌詞を思い出していた。墓参りの後、しばらくして胸のつかえが取れたような思いがした。

この時から自分の躁を客観的に見ることができるようになった気がした。そしてそのとき気づいたのは躁とうつとの決定的な違いであった。躁は強い理性でコントロール(自己抑制)できても、うつはできない(自らテンションを上げることは不可能)ということであった。こうしてようやく私は回復に向う大きな手がかりを掴んだ。自分の躁を冷静に見ることが可能になったとき、躁はネガティブなものから一挙にポジティブなものに変貌したのである。毒をもって毒を制するということわざがあるが、あえてこのことを「躁をもって躁を制する」と表現したい。

しかしながら、ネガティブなものをポジティブなものに変えることはそんなに生易しいことではなかった。そこには大いなる心の葛藤(過去の自分との決別)があった。悩めるそんな折に、私は大正時代の小説家、菊池寛の書いた「恩讐のかなたに」という作品を読んだ。

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※菊池寛「恩讐のかなたに」粗筋
封建時代に主人を殺して逃亡を図った男(主人の家来)は各地を逃亡し追剥になって強盗殺人などの非道を働く。その後男は改心して仏門に入り、罪滅ぼしの意味で隧道(トンネル)を掘る。初めのうち、周囲の人間は男を狂人扱いしたが、しだいに何年もひたむきに隧道を掘る男に共感して隧道堀りを手伝い始める。

そこに殺された主人の息子が敵討ちに現れる。男は息子に斬ってくれと言ったが、周囲は隧道が完成するまで待ってくれと言って敵討は延期になる。息子は男をいつ殺して敵を討つかということだけを考えていたが、男の経文を唱えるその姿を見て自分も手伝う決心をする。死に物狂いで掘った隧道が完成したのは隧道を掘りはじめてから21年の年月が流れていた。このとき息子とよぼよぼになった男に残ったのは恩讐でなく、一つの物事を成し遂げた人間同志の絆だけであった。

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私はこの小説を読んで復讐心からは何も残らないと思った。息子が仇討ちを遂げていればおそらくはこのような隧道は残らなっただろう。この小説は一見このトンネルを掘りあげた男が主人公に思えるが、実は父の仇討ちを思いとどまった息子が主人公だったのである。私は息子の過去の怨讐を捨てる気持ちが人様の役に立ち、隧道の完成につながったと解釈した。
 
これからは生き方を変えよう。主人公である息子を見習い私自身も過去の恩讐を捨てて、人を怨まず後ろを振り返らず前だけを向いて人生を歩みたい。過去の恨み、辛みを捨ててこそ明るい未来が見えてくるのだ。病気の副産物によるものとして寛解(躁鬱の症状が収まったニュートラルな精神状態に戻ること)に至った私は以前の私と比べて性格がまったく変わった。

それはアグレッシブという性格を得たことである。アグレッシブは積極的とも訳されるが一方で攻撃的とも訳される。私は攻撃性が過ぎて険しいと言われないように日々努力しているつもりである。もっともこのアグレッシブ性が元来持ち合わせた潜在的な性格によることなのか、或いは病的なものなのかの境界は誰にもわからない。知るのは神のみである。
      
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