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 平将門と奥州相馬氏
奥州相馬家は現在の藩主である和胤(かずたね)氏で第33代となる。6代・重胤(しげたね)の時、下総(今の千葉県北部)から現福島県浜通り北部(相馬地方)に移ってきたという。相馬野馬追は有名な祭りであるが、実は領地が下総(しもふさ、現千葉県北部~茨城県南西部)であったころに平将門(たいらのまさかど:別名・相馬小次郎)によって始められた軍事訓練であったと言われる。大平の世となった江戸時代に於いてはこれを神事としながらも、敵対する隣国伊達藩を意識しての軍事訓練という意味合いが強かったと推察される。

昨今私は相馬のことをもっと知りたいならば平将門について知らなければならないと考え、その入門書としてこのような本を読んだ。小池章太郎著「山よ火をふけ!」である。元来は小学校高学年から中学生向けの本であるが、一般の歴史書と異なり挿絵が多い分、平将門がどのような人物であったのかを学ぶのにはうってつけのものである。

平将門の系図をご覧頂きたい。将門は武士(武士と言ってもこの時代の武士はまだ身分が低かった)であるが、桓武(かんむ)天皇の血筋を引く由緒ある家柄である。

将門は良将の子であり、高望王(たかもちおう)の孫であるが、系図を見る限りでは奥州相馬氏とは叔父の良文を通じて血筋が繋がっているようである。将門を始祖とする意向もあるが、大意に於いては桓武天皇の曾孫である高望王に始まる平家の血筋と言って差し支えないようである。

家系図1
「山よ火をふけ!」29ページより引用

ご覧のように良文から数えて8代目の師常という人物が養子に入って、将門直系の家系を継いでいる。従って将門を始祖とする説もあながち間違いとも言えない。

家系図2
インターネット「戦国大名探求」より引用

最下段が奥州相馬氏である。師胤(もろたね)という人物に着目して頂きたい。この人物は源頼朝の奥州合戦に於いて効を収め、頼朝から今の福島県相馬地方に所領を賜ったとされる。但し、この時は所領を賜ったのみで城代を置いたのみで、実際にこの地方に居を移したのは重胤の時(1323年頃)とされる。

家系図3
インターネット「戦国大名探求」より引用

平安時代に平将門が北関東で武功を揚げた頃、既に相馬郡という地名が存在したことがわかる。

「山よ火をふけ!」46ページより引用

最後に本著27ページの挿絵をご覧頂きたい。非常にインパクトのあるシーンである。この挿絵は荒馬を捉えて軍馬に仕立てようとする剛力無双の将門を描いたものと思われるが、現在の相馬野馬追の三日目に小高神社行われる神事・野馬懸(のまかけ)の起源を彷彿させるものである。

平将門は長い間朝敵(大悪人、反逆者)とされてきたが、大正時代に入って史家や作家から別な視点(英雄)で捉えられるようになった。本作品では平将門を慈愛の心を持った勇猛果敢な武者とし、その武勲を現代に伝えるものとしている。

本著に於いては、将門が愛する妻子を殺されるに及んでも、憎むべき伯父を四方取り囲まず、三方取り囲んで生かしたことや、敵対した平清盛の妻を捉えた際も逃がしてやったことなどが描かれている。このあたりに、将門は単に猛将だったわけでないという一面を垣間見ることが出来る。武士としての将門のこうした慈愛の心は今後台頭してゆく侍の基盤の精神となる武士道(相手の名誉を認め、卑怯な振る舞いを嫌う)にも繋がるものと受け止めている。同時に相馬野馬追の起源が将門にあるという説の意味を理解できた気がしている。
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