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伊達政宗の新地城攻略
去る6月7日(日)私は福島県浜通りの最北部に位置する相馬郡新地町を訪れた。目的は伊達と相馬の激しい攻防のあった新地城跡の探訪である。

これは南側から見た全景である。周囲はこの地方特有の長閑な田園が広がる。長閑ゆえ、とても大名の城があったとは思えないほどで、どこにでもあるような低い丘という印象である。

新地城跡をgoogle航空写真でご覧頂きたい。他の部分は最近福島県北部、及び宮城県南部で私が訪れた城址である。(但し、宮城県の内陸部の丸森町は割愛)これらは何れも伊達と相馬の争い、或いは戊辰戦争に絡んだものばかりである。
赤○:新地城跡(今回訪問)
紫○:愛宕山城(2015年5月訪問)
橙○:蓑首城(2015年5月訪問)
黄色○:駒ヶ嶺城(2015年4月訪問)
黄色□:黒木城(2015年5月訪問)
赤□:中村城(馬陵城)(2015年4月訪問)

東虎口、馬場と思われる部分に駐車スペースがあったので、私はそこにバイクを止めて徒歩で探索することにした。

新地城は1566年相馬藩第15代藩主である相馬盛胤によって築かれた城であるが、経緯としてはここから南東に1.5キロほど離れたところにあった谷地小屋要害が平城ゆえ、防御力に不安を抱いた盛胤が築城に及んだとされる。

南側から見た本丸はかなり広く見えるが実際には北館と本丸の間に堀があり、後年埋め立てられた由縁と思われる。

築城から23年後、破竹の勢いで南奥州を手中に収めようとしていた伊達政宗によって攻め落とされ、その後は伊達領となり、江戸時代初期には廃城となったとされる。

余湖様のサイトから転載(許可を確認済み)した想像図をご覧頂きたい。比高こそ15メートルと低いが用意周到に堀が張り巡らされている。但し水は引けない高さゆえ、多くは空堀と見られる。

google航空写真と照らし合わせてご覧頂ければっやイメージがお掴み頂けると思う。

西館から見た西側のアングル(林の向こうは阿武隈山地方面)である。

西館と北館の間にはこのような大規模な内堀が掘られている。深さは5~6メートルといったところであるが、往時は柵などが仕掛けられ、容易には登れないものであったと推測する。内堀跡は今はチューリップ畑となっているようである。

西館から見た北館の西端方面である。二本の木が生えているものの樹齢から言って歴史の生き証人とは言い難い。このあたりは江戸時代前期に城としての機能を失った由縁なのかも知れない。

北西部(馬場の脇)には新地城址会という建物が建てられていた。本丸跡の立て札によると、相馬側の足軽の祖先と地元のかたの有志とで結成されたものとのことであった。

帰り際に南側の相馬方面を望んでみた。ここから3キロ先には駒ヶ嶺城があった。この二つの城が1589年、伊達政宗によって攻め落とされたことになる。16代藩主相馬義胤の田村領出陣の一瞬の隙をついた出来事であった。
まさに疾風の如し。伊達政宗は各所に忍びの者を使わせ情報収集力に優れていた。

時に伊達政宗は満22歳、若武者独眼竜政宗の破竹の勢いを感じた今回の新地城跡探訪であった。
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