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近世の相馬を救った二人の偉人の墓を訪ねて
去る5月31日(日曜日)私は中村街道沿いの相馬市北部の小高い丘を訪ねた。ここは相馬市西部ここには幕末の相馬を救った二人の偉人の墓が存在する。但し、これは単なる結果論である。実は此の地を訪れたのは本命である黒木城を探しかねたゆえの偶然であった。

これを単なる偶然と捉えるのか、因果と捉えるのか私には定かでない。但し、一つだけ言えることは私が尊敬して止まない小説家志賀直哉の祖父である志賀直道が従事した偉人が此の地に葬られていることである。

google航空写真をご覧頂きたい。
赤:高蔵院跡
黄色:愛宕神社

ここは高蔵院を開山した陰山和尚の墓である。開山は1673年~1680年頃とされる。実に開山から340年近くの歳月が経っていることになる。

ここが陰山和尚が開山した高蔵院跡地である。

観音堂:1703年渡航安全のため相馬22代藩主、相馬叙胤公が建立した建物と言われる。

愛宕山史跡の略図をご覧頂きたい。陰山和尚の墓は⑧、観音堂は③である。

現存する建物の由緒をご覧頂きたい。実に190年近い開きがある。藩政時代6万石と言われた相馬がこうして長きに渡ってその名を幕末まで残したのはそれなりの大きな由縁があった。

地蔵堂:1866年建立、地蔵堂は二宮尊徳ら三名を祭ったものである。

これが近世の相馬を救った二人の偉人の墓(左:慈隆、右:二宮尊徳)である。

二人の生き様は今でも相馬の人々の心中に生きている。また、その志は現在に於いて一つも色褪せないものであり、相馬藩史上に敢然と輝くものとなっている。

二宮尊徳の墓には「誠明先生墓」と刻印されていた。生涯を農政に捧げ、誠に生きた彼らしい命名である。

ここで小説家志賀直哉の祖父である直道と二宮尊徳の関係について触れたい。
(以下そうま広報ウェブより引用)安政元年(1854)、二宮尊徳に入門し尊徳のもとで2年間にわたり二宮仕法を学び、尊徳が亡くなると藩主の命により、尊徳の子尊行を補佐して日光仕法を推進するため、家族で今市(現栃木県日光市)に移住した。明治維新後は、相馬藩権知事などを歴任し、旧藩主を補佐するため東京の相馬家の家令となった。

あまり知られていないが「西の吉田松陰、東の慈隆」と称される。彼は戊辰戦争で相馬の保身を第一に考え、相馬を火の海とするのを阻んだ第一人者とされる。

二人の墓を見た後、私は松林越しに南側のビューを望んでみた。

今年で開山から312年、宇多川越しには南相馬の大平原が望める。この景色を見て多くのかたが煩悩から救われたことだろう。私はこれを心に刻んで次の目的地である黒木城に向かった。
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