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戦国の世に垣間見る黒木城の数奇な運命
一昨日の5月31日、相馬市北西の郊外にある黒木地区を訪ねた。主な目的は黒木城跡地を訪ねることである。相馬駅方面から県道228号線を北西に約3キロ強ほど行くと小高い丘(写真中央部:実際は比高10メートルにも満たない)が視界に捉えられる。

相馬市街地から黒木城城跡に向かうにはこの黒木郵便局が大きな目印となる。

広域航空写真で位置を確認して頂きたい。(約1.8倍に拡大可能)
赤:黒木城跡
黄色:中村城跡
オレンジ:駒ヶ嶺城跡

黒木城は平城ゆえに地上からその全容を捉え難い。(約1.8倍に拡大可能)

現在、城ノ内には二件の民家が存在するが北側の家を訪ねたところ、親切にも文献を拝見させて頂き、いろいろとご先祖様の由緒をお教え頂いた。同家は一年に一回、今でも一族のサミットを行う名門の家柄と聞き及んだ。同家の由緒はなんと南北朝時代に遡るが同家と黒木家の関わりは今ひとつわからなかった。

但し、これだけで一つの研究テーマになりそうなほど奥行の深さを感じた。これは同家敷地に現存する往時の黒木城の堀跡とのことであった。

以下城郭放浪記より引用
築城年代は定かではないが建武年間(1334年~1338年)に黒木大膳亮正光によって築かれたと云われる。

黒木氏の発祥は定かではないが、在地土豪説あるいは北畠顕家家臣説があるという。建武3年(1336年)黒木入道一党が南朝方として挙兵し、霊山城落城後も南朝方の防衛拠点として北朝方の攻撃を防いでいる。その後中村城を本拠とする中村氏と対立しつつ相馬氏に属する。そして黒木弾正信房の頃には中村城に弟黒木大膳義房(中村大膳)を置いて宇多郡をほぼ支配するに至る。

しかし、天文年間(1532年~1555年)に至り、伊達氏の天文の乱で伊達晴宗に組した黒木氏は伊達稙宗方の田中城を攻めて失敗し相馬盛胤、義胤父子に滅ぼされ、黒木弾正は伊達輝宗臣下となり岩出山に逃れる。

相馬氏は青田信濃顕治を城代して置いたが、永禄6年(1563年)青田氏一族が離反して伊達氏に走り、代わって相馬三郎胤乗、続いて黒木中務宗元が城代となったが、天正4年(1576年)黒木中務は弟堀内四郎と謀叛を起こして伊達輝宗の元に走った。
その後城代となった門馬上総介貞経は天正18年(1590年)駒ヶ峯城奪還戦で中村城代相馬隆胤などとともに討死して佐藤丹波信綱が城代となったが後に廃城となった。

※想像図は余湖様のHPより転載可を確認の上掲載。
B地点は廃城後に埋め立てられた平地と思われる。厳重とも言える幅の広い二重の外堀の中には蜘蛛の巣状に張り巡らされた幅の狭い堀が複雑に配置される。比高10メートルにも満たない平城はいつ落城してもおかしくない。従って、このあたりは城と運命をともにしなければならない城主の悲壮感にも似た心の叫びを感ぜずに居られない。

相馬側の城主の数度にも渡る伊達への寝返りの心理を推し量るに、平城の定めとも言えるこの城の防御力の低さは密接な関係があったのではないだろうか?

航空写真から想定した外郭~外郭は東西で約300メートル、南北で約330メートルと推定される。(約1.8倍に拡大可能)

私は城の西側を歩いてみた。余湖様の図で言えばB地点に当たる部分である。林の途切れる左の部分には或る地蔵が祀られていた。

地蔵の前にある説明書きと城の配置図は経年変化ですっかり色褪せていた。地蔵はこの説明書きの陰にひっそりと祀られている。

通称「ぽlっくり地蔵」、付近の人の話によると一人逃れた黒木弾正の残された家族(女子供)は相馬側の闇討ちに遭い、多くが斬殺されたという。ぽっくり地蔵はこれに対する供養とされる。

相馬駅に戻る際、私は中村城の方角を遠望に及んだ。民家の庭からはウグイスの囁きが聞こえる。心地よい薫風が半袖から覗いた二の腕を撫でた。これは海に近いゆえの浜風が為せるものなのだろう。

道が続く限り田の畦をどこまでも歩こう。栄枯盛衰は人の世の定めなれど、往年の黒木氏は中村に至るこの道をどんな心境で望んだのであろう?周囲の現在の長閑な田舎ぶりは戦とは縁のない佇まいゆえ、寝返りが頻発した往時の定め(弱肉強食)に因果応報を感じた今回の訪問であった。
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