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 二宮尊徳に見る究極のサバイバル手法
去る5月17日、私は相馬中村にお住まいのAさんご夫婦を訪ねるかたわら、或るスポットを訪ねた。そのスポットは相馬藩の本城が置かれた中村城から徒歩5分に存在する。江戸時代後期の相馬を救った人と言えばこの人である。

彼は百姓の家に生まれながら希なる才覚を発揮し、士分に取り立てられた逸材中の逸材と言える人物である。

二宮尊徳(二宮金治郎:農政家、1787~1856)

※以下Wikipediaと相馬市オフィシャルウェブサイトを基にミックがオリジナル編集

相模国足柄上郡栢山村(現神奈川県小田原市に百姓の長男として生まれる。金治郎が歳の時の(1791年)南関東を襲った暴風で付近を流れる酒匂川の堤が決壊し、東栢山一帯が濁流に押し流されて田畑は荒地と化す。14歳のとき父利右衛門が死去、年後には母よしも亡くなり、尊徳は伯父万兵衛の家に身を寄せる。伯父の家で農業に励むかたわら、荒地となった栢山村を復興させ、僅かに残った田畑を小作に出すなどして収入の増加を図り、20の若さで生家の再興に成功する。

その後、尊徳は生家の地主として経営を行いながら小田原に出て、武家奉公人として働く。奉公先の小田原藩家老服部家でその才を買われて服部家の財政建て直しを頼まれ、これを成功に導く。尊徳はやがて小田原藩内で名前が知られるようになる。更に小田原藩主大久保家の分家であった旗本宇津家の知行所であった下野国桜町領(現栃木県真岡市の仕法を任せられる。後に東郷陣屋(同じく真岡市)にあって天領(真岡代官領)の経営を行い成果を上げる。その方法は報徳仕法として他の範となる。その後、日光山領の仕法を行う。1856下野国今市村(現栃木県日光市)の報徳役所にて69年の生涯を閉じる。

相馬中村藩では、天明天保の二度に渡る飢饉で農村が疲へいし、藩財政が窮ぼうした。そうした中で相馬御仕法については、中村藩士で二宮尊徳の弟子となった富田高慶から、中村藩復興の良策案として家老草野正辰に進言があり、草野家老池田胤直らと藩論の統一をはかり、藩主に上申して導入される運びとなる。

相馬で言う「御仕法」は一般には「興国安民法」とも「二宮仕法」とも「報徳仕法」などと言わた。御仕法は、至誠勤労分度推譲から成り、このうち、
1、分度は、各自にふさわしい支出の限度の把握
2、推譲とは、将来にそなえること。また他人のために収入の一部を譲ることを指す。
これらの理念に基づいた農民生活の安定のため質素倹約備荒貯蓄を目的とするものである

御仕法の実施にあたっては、村民たちの投票により働き者を表彰して、お金や農具を与えることにより、農業への意欲を高めるとともに、困窮者の救済、家の修理、新築への助成を行い、更には用水路の工事や修理も施行されるに至った


 
 コメント
日本経済は不景気の時代に入って久しい。経済学者など有識者の見解では、日本経済は既に死に体とも言われる。そんな中で生き残るにはどうするか?そんなことをお考えのかたも多いのでないだろうか?

私はそんな時こそ歴史に注目すべきであると感じている。吉田松蔭の啓蒙思想も悪くないが彼の場合は余りに志が高く、やや俗から離れている。従って二宮尊徳のような実践を重視した人物はこうした不況の時こそ見直すべきでないだろうか?

二宮尊徳に関する逸話がある。彼は小説家志賀直哉の祖父である志賀直道(相馬藩士、相馬事件にも関わった人物)が師事した人物と言われる。但し、尊徳は一回も相馬を訪れたことがないのである。それにも関わらず、彼が今でも相馬のかたから畏敬の念を持たれ、慕われるのは何故なのか?その答えは「二宮御仕法」を藩の立て直しに用いた相馬藩主の生き様に見て取れるものである。

即ち、二宮仕法を取り入れた第27代相馬藩主、相馬益胤は毎日の食事が焼き飯と一菜で農民より質素だったと言われる。また28代藩主、相馬充胤は藩の石高を六万石から一万石にすることを幕府に申し入れたと言う。このあたりには、相馬藩に一度も百姓一揆が起こらなかった由縁を見出すものである。

相馬御仕法には、この仕法が行われた少し前、米沢藩を統治した名君、上杉鷹山の執り行った藩政改革にも酷似したものを感じる。日本経済が不景気な時勢こそ、先賢の知恵が必要、然るに、私はこうした先賢の志に触れ今何が求めらるのかを学んで行きたいと思っている。
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