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相馬市初音旅館跡地への再訪
去る5月17日(日曜日)私は相馬市袋町のAさん宅を訪ねた。今回で二回目の訪問である。目的は親父が役人だった五十数年前に宿泊したの初音旅館の写真を送って頂いたことに対しての御礼である。

Aさん夫婦との出逢いは劇的であった。一ヶ月前の日曜日、相馬市役所のかたから初音旅館のおおよその位置を聞いた私がどうしても初音旅館跡地を見つけ切れないため、たまたま庭仕事をしていた奥様に声を掛けたのがきっかけだった。

※前回の訪問内容は過去更新の記事を参照。ミックブログ2015年4月12日更新「父が五十数年前に宿泊した初音旅館を訪ねて」http://blogs.yahoo.co.jp/bgytw146/33412449.html

「その節は大変お世話になりました。それと初音旅館の写真を送って頂きありがとうございました。」私はご夫婦に心からお礼を述べ、感謝の気持ちを伝えた。たまたまご主人の知り合いのかたがいらしていたので挨拶だけ済ませて帰ろうとしたら、ご夫婦に強く引き止められたため、私はご厚意に甘えることにした。

ご主人の知人は大変歴史に詳しいかたで蝦夷やアテルイに始まり、相馬氏の始祖である平将門、相馬と対立した伊達政宗、相馬仕法を説き相馬の危機を救った二宮尊徳に至るまで、古代から近世に跨る幅広いお話を聞かせて頂いた。また、相馬野馬追の起源と野馬追が何故千年以上を経た現在まで続いているのかなどについての話でも大いに盛り上がった。

Aさんと奥様からは気骨に溢れた舅様(故人)の生き様には特に興味を持った。それは4月に私がAさん宅を訪れたすぐ後に、私宛に奥様の書いた手紙と数枚の写真が届き、その写真の中の一枚が「相馬市制研究会」の看板を掲げた自宅の前に着物を着た舅様(Aさんのお父様)が写っていたからである。五十台から六十台頃と見られる舅様は腰に手を宛て、如何にも気難しい表情で写真に写っておられた。

聞くところによると舅様は往時、相馬市制を批判する立場ゆえ、宴会や接待で役人が出入りする初音旅館にはいつも目を光らせていたという。ご夫婦のお話を聞きながら、私は五十数年前に初音旅館を訪れた親父のことを思い出した。当時三十代後半だった私の親父も、或いはこの舅様の鋭い視線に晒されていたのかも知れない;

※五十数年前の親父が出張先の初音旅館から私と母に宛てた葉書

※平成16年2月10日に撮影された初音旅館。初音旅館はこの写真が撮影されてから二週間後に解体されている。

もう一枚の別な写真には初音旅館の玄関を背後に、ご夫婦のご子息と思われる幼児が写っていた。初音旅館の女将さんとは立場的に対立せざるを得ない関係であり、日常的に芸者さんが出入りし、毎夜の宴会の席から漏れる騒音のことで口論が絶えなかったと聞く。奥様が嫁に入った当時は、もちろんこうしたざっくばらんな話など出来るはずもなく、嫁としてただただ舅様を見守るのが精一杯であったようだ。Aさん宅には一時間ほどでおいとまし、私は改めて初音旅館跡の敷地を眺めてみた。

ようやく当時の生き証人と思しきものを発見した。如何にも古そうなコンクリートブロック製の桝蓋は昭和三十年代の頃のものか?

私と違い、線の細かった往時の親父は恐らく多くの人の目を気にしていたのだろう。母から聞いた話だが、親父は私と似て人付き合いが殊の他苦手だったと聞く。
親父が職場の女子事務員さんの口の聞き方が悪いということで空の弁当箱で事務員さんの頭を叩いて大いに後悔し、後で肩をがっくりと落とし、事務員さんの自宅に謝りに行ったと聞き及んだとき、私は己の性格との相似を感じ、大変恐縮ながらも「けして血は争えない」という言葉を再認識した次第である。
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