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戦国の世に築かれ、城主を変え幕末まで居を構えた蓑首城
連休中の5月4日、宮城県亘理郡山元町の愛宕山城を訪ねた私は目と鼻の先にある蓑首城(みのくびじょう)へと向かった。こうした史跡探訪で欠かせないのは周囲の環境をよく観察し、往時の思いを頭の中にイメージすることである。

ただ観察するのみでなく出来れば往時の武士(もののふ)に成り切りたい。即ち、単なる史実のみの羅列に留まらず創作に及ぶのなら、この成り切りこそが己のモチベーションを上げ得る大きな原動力となるからである。そうでもしないとなかなか歴史エッセイなどの創作にはなかなか至らない。

何か往時を偲ぶものがないか?まるで何かに取り憑かれたように血眼になってそこらじゅうを必死になって探し回る。これは或る意味で他人の目から見れば立派な奇人変人の類に映るのかも知れない。だが、歴史ものの創作に於いては、そんなことなど眼中になくなるほど、そのものにのめり込まねばならないと考えている。

ここは蓑首城から北西に300メートルほど離れた地点のビュー(西側)である。広域地図を見ればひと目でわかるのだが、この山(阿武隈山地)の向こうは丸森の小斎地区であり、蓑首城が築城される8年前の1564年には伊達と相馬との間で金津、小斎の合戦が行われたところでもある。そしてけして忘れてならないのが山の向こう側は1581年までずっと相馬領だったことである。

また築城されてから5年後の1577年には亘理郡坂元の合戦が繰り広げられることになる。(紫桃正隆氏「みやぎの戦国時代 合戦と群雄」より)伊達と相馬の相克を考察するに及んで16世紀後半、このあたりが如何に激戦の地だったのか想像に難くないものである。

広域航空写真で蓑首城の位置(黄色○)を確認して頂きたい。
(約1.3倍に拡大可能)

これが城の玄関とも言える大手門である。門を潜った先には講武所があったとされるが、今は民家が建っている。

これが明治維新時の地図であるが、なにせ昔の地図ゆえ南を上にして描かれている。
ちなみにお大手門の位置はL型の内側の交点の部分である。
尚、蓑首城の謂れについては「三角形の本丸を中心に三方向に郭を広げた形態が蓑の首の部分に似ている所から付けられた」由縁とされる。
※山元町教育委員会「山元町ふるさと地名考」より転載(約1.3倍に拡大可能)

古地図と整合させるため、航空写真も南を上にしてみた。黄色が大手門、赤で囲まれた部分が本丸である。(約1.3倍に拡大可能)

この城から北に600メートルほど離れた愛宕山城(城主:坂元大膳隆俊)が相馬軍の猛攻撃を受け、落城に至ったのは1571年、蓑首城は隆俊の子である坂元三河によって翌年築城された。その後城主が入れ替わって大條氏となり幕末に至った。この大手門は1600年代の藩政時代に作られたと見られる。
(約1.3倍に拡大可能)

現山元町立坂元小学校の正門の北西部には山元町教育委員会の史跡「みの首城跡」という立札が立てられている。

ここはかつて本丸のあったところだが、今はこうして坂元神社が鎮座している。

坂元神社の北側に空壕跡を見つけた。このあたりはやや高いため、壕に水を張れなかったため、止むを得ず空壕としたようである。

空壕は二重とし、イバラやカラタチを敷き込み、敵の侵入を阻もうとしたようである。このあたりに伊達陣営の只ならぬ意気込み(落城させるまい)を感じた。

本丸跡(現坂元神社)の配置図をご覧頂きたい。この図も南が上である。
(約1.3倍に拡大可能)

大條氏はこの地で十代まで続き幕末を向かえた。

最後に本丸跡から坂元小学校の校庭を望んでみた。1577年の亘理郡坂元の合戦では愛宕山城落城の二の舞を踏まじと伊達軍は奮起したのでないだろうか?目を閉じて私は瞑想に及んだ。小学校の屋上越しに見える中央の山は落城した愛宕山城である。
「花は相馬に実は伊達に」、ここに伊達と相馬の行く末をものの見事に表した言葉がある。

脳裏に無念の討ち死を遂げた坂元大膳隆俊のことがよぎった。我が子三河に託した志。神社の境内の散り終えた桜の木には小振りなサクランボが成っていた。私は大膳の執念がやがて実となり数百年の時空を経て蘇ってくるかのような不思議な倒錯を覚えた。周囲の他は水が張られ農家のトラクターが忙しく動き回っている。私は己の死をもって仙台藩に実を残した大膳隆俊の御霊に深くこうべを垂れ、薫風そよぐ古城を後にした。
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