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 坂元大膳隆俊、無念の討ち死に
宮城県最南部の亘理郡山元町坂元地区を訪ねたのは5月5日であった。目的は445年前にこの地に城を構えた伊達家臣坂元大膳隆俊が築いた愛宕山城である。墓参りに訪れた付近のかたに聞きながら、目的地のおおよその位置を掴んだ。
写真は国道6号線からのアングルである。目的地である愛宕山城は中央の白い建物のやや右上のあたりである。

ここは坂元町のバス停(愛宕山城からは南東部)である。付近の道路は城下町特有のクランク状を呈している。このあたりは南から攻めてくるであろう敵軍(相馬)を強く意識したものという印象を受けた。

「愛宕神社(愛宕山城跡)に行きたいのですが。」近くまで来て、田仕事をしていた農家のご夫婦に訪ねたところ、応急仮設住宅西側の脇道からのアプローチをご教示頂いた。やはりこういったややマイナーな史跡探訪には土地勘のある付近のかたへの聞き込みは不可欠という気がしている。中央の山が目指すところの愛宕山城跡である。

google航空写真で位置を確認して頂きたい。(1.5倍に拡大可能)
赤:愛宕山城跡
黄色:愛宕山城跡落城後に移された蓑首城跡(現在は坂元小学校、坂元神社)

愛宕山城と蓑首城の歴史をご覧頂きたい。(山元町教育委員会発刊の「山元町 ふるさと地名考」より転用)

1570年は伊達政宗はまだ3歳だったゆえ、父の輝宗が伊達藩主だったころである。往時は相馬との相克が激しさを増していた頃ゆえ、愛宕山城でも相馬との死闘が繰り広げられたようである。

犬を連れた付近のかたに城跡に至る道を尋ねたところ、ご親切にも入り口まで案内して頂いた。この電話会社の鉄塔が目印となる。

この立て札には愛宕山城についての概要が記されているが、本丸跡にあるものと同じものである。本丸に至る溝状の道は草木が生い茂りあまり状態が良くない。スニーカーではやや役不足ゆえ、本丸跡に行かれるかたには、長靴や編み上げ式のアドベンチャーブーツの着用をお勧めする。

非常に急峻な斜面の道を通って本丸跡に至った。周囲は鬱蒼とした木々に覆われている。何せ445年も前のこと、この大樹をしてさえ、往時のことは見てないのかも知れない。

古文書で屈強の要害と言われた愛宕山城を守り抜こうとした伊達家臣坂元大膳隆俊は相馬藩15代藩主相馬盛胤、義胤父子の猛攻を受け、討ち死にしている。

本丸跡にはこのような愛宕神社の祠が建っていた。立地から言って、訪ねてくる人もまばらという印象を受けた。

土塁?と見られるものを発見した。往時の面影がなかなか見出せない中、唯一古城跡を彷彿させるものである。

yahoo航空写真で本丸跡を確認して頂きたい。確かに急峻な斜面に囲まれてはいるものの、一見すると古文書に書いてあった屈強な城構えには思えない。大軍に包囲され、補給路を断たれれば落城に至るのも無理はないと感じた。

入り口から南側を望んでみた。坂元大膳隆俊は家臣とともに南から攻めてくるであろう相馬を必死の覚悟で見張ったのではないだろうか?

私は目を閉じて、つわものどもの怒号が響き渡った往時に思いを馳せた。如何に本分なれどいつ死んでもおかしくない。ここに、改めて侍の覚悟とは如何に厳しいものであったかのかを再認識した今回の探訪であった。
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